小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 天下統一を目指す信長が安土築城を命じたのは、畿内をあらかた平定し、さらなる展望を抱いた時期でした。新しい本拠地として安土を選んだ信長の狙いとは、はたして何だったのでしょうか?

 さらに、従来の「戦うための城」ではなく、「見せるための城」とした意図とは?

(『歴史街道』2013年9月号「安土城の謎Q&A」に掲載された16項目から5つをご紹介します)

 

信長が安土城を築いた意図とは?


 信長は安土城を築く前に、本拠地を何度も移しています。那古野城から清洲城に本拠を移して尾張を統一した後、前線により近い小牧山城で美濃攻めに臨みました。斎藤氏を下すとその居城の稲葉山城に本拠を移し、岐阜城と新たに命名します。そして、その翌年に足利義昭を奉じて上洛を果たしました。

 このように、信長は次の目標に近いところに城を移して、進攻するというやり方で勢力を拡大していきました。岐阜城に本拠を移してからしばらくは、四方の敵対勢力と対峙する状態になりましたが、浅井・朝倉氏を滅ぼし、長篠・設楽原の戦いで武田軍を大敗させ、長島や越前の一向一揆勢を討伐すると、次なる目標は大坂の石山本願寺や中国地方の平定となります。東は武田家が衰えを見せ、盟友の徳川家康が遠江へ進攻していましたので、信長の意識が西に向かうのは当然だったでしょう。

 ただ、安土築城を命じた天正4年(1576)の時点では、越後の上杉謙信と敵対関係にありましたので、上杉勢が北国街道から信長の勢力圏に進攻するのを阻止する必要がありました。また、石山本願寺が健在ですから、越前や湖北の一向一揆が再び立ち上がる恐れもあり、それを防ぐ必要もあったのです。

 もちろん、京都に居城を移すという選択肢もあったでしょうが、琵琶湖湖畔の安土から京都へは船を使えば半日程度で入れますから、わざわざ京都に本拠を移す必要はありません。それよりも京都と尾張の中間に位置する安土にいて、上方と東海地方の両方の経済圏を押さえようという意図があったのです。

安土城は「見せるための城」なのか?


 安土城以前の城のように、単に籠城して戦うための城であれば、わざわざお金をかけて豪華絢爛を誇る必要はありません。しかも目立たせるのは攻めてきた敵に目標を示すこととなるので逆効果です。

 しかし築城の時点では、織田家の戦闘地域は勢力圏の周縁部にあったわけですから、信長は安土で戦うことなど想定していなかったでしょう。ですから、信長は軍事的な面というよりも政治的な面を重視しました。

 つまり、城下のどこからでも壮麗な天主が見えるようにして、人々に自分の権威を示したのです。しかも従来にない新しいものを見せることによって、信長の天下になれば、これまでとは違った世の中になるということを人々に印象づけました。

 現に派手好きの信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、天主を提灯でライトアップするなど、これまでにない盛大なイベントを企画しました。天正10年(1582)の正月には、天主の隣にある本丸御殿を見物させて自ら百文ずつの見物料を受け取ったりもしています。

 このような演出を目の当たりにすれば、民衆は信長に靡いて新しい政策も受け入れますし、敵対者も信長と戦うのはあまり得策ではないと考えるようになります。

 こうした発想は、やはり天下統一を狙う人物ならではのものでしょう。信長の天下統一事業の後継者となった秀吉も、同様の発想で大坂城や聚楽第を築きました。そうした意味で、安土城は、城郭が新たな機能を備える画期となった城と言えます。


天主に秘められた謎


 安土城の天主については、いくつかの復元案が提唱されていますが、基本的には太田牛一の『信長公記』の写本の1つである『安土日記』やルイス・フロイスの『日本史』の記述が元になっています。それに様々な証言や文書を傍証として復元案がつくられ、近年では主に5種類ぐらいのものがあります。

 それぞれ階層の形や大きさに色々な違いがあるのですが、特異なものとしては、地階から地上3階までの計4階が巨大な吹き抜けになっていて、その中央に宝塔を据え、西洋風の天井の高い空間があったという説があります。2階には舞台も設けられていて、いかにも派手好みの信長らしいユニークな構造です。この案は加賀藩士の家から見つかった「天守指図」という城の設計を記した史料にに基づいていますが、後世に創作されたものではないかという意見もあり、どの程度史実に基づいているのかは議論の分かれるところです。

 他に、地階から3階までの中央に心柱があったという説や最近では天主台から清水の舞台のような懸け造りの構造物が張り出し、二の丸と繋いでいたという説もあります。これらも特色があってとても興味深いものがあります。しかし、いずれも可能性としてはあっても、確かな史料がないため想像の域を出ておらず、何とも言えないところです。私自身としては、もう少しオーソドックスなつくりだったのではないかと考えています。

 実は、存在自体は知られていながら行方がわからない、有力な史料があります。信長がローマ法王のために狩野永徳に描かせ、宣教師ヴァリニャーノがバチカンに持ち帰った屏風絵です。天正13年(1585)にバチカン宮殿内の「地図の画廊」に展示されたことは確認されているのですが、以後、行方不明になりました。その「幻の屏風」を求めて数度にわたって滋賀県から調査団が派遣されましたが、未だ発見されていません。天主の姿を知る上での貴重な史料ですので、発見が待たれるところです。

本能寺の変後、天主はなぜ炎上したのか?


 本能寺の変の後、安土城は明智軍の手に落ちました。しかしそれも束の間のことで、山崎の合戦で敗れた直後、光秀の娘婿の明智秀満が安土城から退去する際に天主が炎上します。本能寺の変からわずか12日後に天下一の天主が灰塵に帰してしまいました。

 はたして誰が火を放ったのでしょうか。『惟任退治記』や『太閤記』など後世の書物では、秀満が逃げる時に城下に火を放ち、それが本丸に飛び火したと記されています。しかし、近年の発掘調査から、安土城の本丸周辺以外の場所は燃えていないことがわかりました。後世の軍記物で秀満が犯人に仕立て上げられたのかもしれません。

 実は犯人として名前が挙がる人物が、もう1人います。それは信長の息子の織田信雄です。ルイス・フロイスが『イエズス会日本年報』で信雄が犯人だと記しているのです。

 信雄は明智勢が退去した直後に安土城に入りますが、その際、まだ城内に隠れていた明智勢の残党を炙り出すために火をつけたのではないかと考えられています。父信長が築いた城に火をつけたとは考えにくいようにも思えますが、信雄は信長によく叱られていたので軋轢もあったかもしれません。フロイスも「理由はわからない」としているように、信雄のその時の心情まではわかりかねますが、ほとんど利害関係のないフロイスがわざわざ記している点で、信憑性が高いように思われます。
 
 清洲会議の後、織田家の家督をついだ信長の孫の秀信(三法師)とその後見の信雄が焼け残った安土城に入ります。天主はなくても、安土城はその後も織田家の居城として機能していました。

 ですが、秀信は2年後の天正12年(1584)に近江坂本城に移されました。さらにその翌年に、羽柴秀次が近江八幡に居城を築くことになります。これによって安土城は正式に廃城となり、安土の城下町がそっくり移るような形で近江八幡の町づくりが進められていきました。

 信長の後継者となることを目論んでいた秀吉にすれば、織田家の象徴である安土城がいつまでも残っていることは都合がよくなかったのでしょう。そのため、天主も再建しませんでした。この頃、大坂城の築城にも乗り出していますので、大坂城こそが天下の城であると思わせたかったのです。信長とともにこの世から消えた安土城は、それほど人々に強烈なインパクトを与えた城だったと言えるでしょう。


小和田哲男(おわだ てつお) 静岡大学名誉教授
1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある。