清谷信一(軍事ジャーナリスト)



自衛隊は「戦力なき軍隊」


 筆者も憲法改正自体には賛成の立場だ。現実問題として現憲法による制約や国防に関する歪んだ「常識」が存在し、それを是正する必要性は筆者も重々承知している。普通の日本人が現憲法を素直に読めば、我が国は自衛隊を含めて戦力を保有できず、交戦権もない、と読めるだろう。当然自衛隊は違憲だし、国防のための戦争もできない。つまりは自衛権を放棄している。それでも多くの国民は国防も自衛隊も必要だと認めている。現実の憲法のギャップを解消しなければならない。
 
 だが筆者は現状での憲法改正は極めてリスクが大きく、改正をすべきではないと考えている。それは政治家の現実認識が非常に甘く、かつ当事者能力が著しく欠如しているからだ。つまり政治家に憲法を改正するための知識や見識、当事者能力がないということだ。

 「憲法改正」を求める安倍首相をはじめとする保守の政治家、論壇の「保守の論客」と称する人たちの主張を聞くと、その主張がまるで70年代の観念的平和主義者のような空想的スローガンの連呼と同様に聞こえるのは筆者だけだろうか。
 
 彼らは憲法さえ改正して「普通の国」にして自衛隊を国防軍にすれば、国防に関する全てのことは上手くいく、と思い込んでいるように思える。その一方で、現憲法下で可能な自衛隊を縛る個別の法律や規制の変更には極めて無関心だ。

 だが、地道な努力によって防衛省や自衛隊を現実的に変えていかないと、憲法を改正するための実際的な問題点も見えてこないし、現実的な議論のベースができない。実際問題として憲法を改正しなくとも、自衛隊を縛る法令や規制を変えるだけで多くのことが変えられる。

 これを怠って憲法を改正するのは、いわば基礎工事を抜きに楼閣を立てるようなものだ。形而上学的な観念や情念だけで憲法を改正してもまともな憲法にはならないだろう。またそのような現実的な変革の努力なしに文言だけを弄ぶ神学論争で新たな憲法を制定しようとしても、多数派の国民の理解は得られないだろう。
 
 かつて小泉政権時代は「有事法」や「国民保護法」が制定され、一定の進歩を見た。「有事法」ができるまで自衛隊はその土地の地主の許可を取らないと塹壕や蛸壺一つ掘れなかった。また自衛隊は野戦病院を持っていたがそれを使うことができなかった。それをやれば「犯罪者」になるのだ。まるで喜劇やコントのようだがこれが現実だ。

衆院本会議で有事法制関連7法案が起立多数で可決=2004年5月(撮影・瀧誠四郎).jpg
衆院本会議で有事法制関連7法案が起立多数で可決=2004年5月(撮影・瀧誠四郎).jpg
 そして未だに自衛隊を縛る法制や規制は少なくない。現在の法制を順守する限り、自衛隊は戦争も戦闘行為も、国民を守るために戦うこともできない。

 戦時に国防を全うしようとすると、犯罪者になり、それが嫌ならば侵略されるままに指をくわえて見ているしかない。だから「ミグ25事件」や「オウム真理教事件」の時も、連隊長クラスは腹を切る覚悟で部隊を動かしたのだ。政治と行政の無能が自衛隊の現場の指揮官に責任を押し付けている。これが我が国の「文民統制」の現実である。このような責任の押し付けは文民統制が機能しているとはいえず、法治国家といえない。だがそれを政治家もメディアも大きな問題と受けとっておらず、その解消に不熱心だ。我が国の文民統制に問題点はないと思い込んでいる。保守系も含めて「軍事音痴」「平和ボケ」は度しがたいのが我が国の現実だ。
 
 このような政治の無関心が、法律や各種の規制が自衛隊を歪めている現状を放置している。どうせ「軍隊」でもないし、戦争はできないのだという開き直りや諦めが自衛隊の常識、となっている。当然ながらそのような考えを元にした自衛隊の装備調達や運用は軍事的整合性を欠いている。法や規制は自衛隊の行動を縛るだけではなく、自衛隊から軍事的整合性のある思考力や常識すらも奪いとっているのだ。

 その意味では吉田茂の言った自衛隊は「戦力なき軍隊」という言葉は正鵠を得ている。自衛隊が精強だというのはイリュージョンであり、憲法さえ変えれば自衛隊が「軍隊」として機能するというのは幻想に過ぎない。