三浦瑠麗(国際政治学者)

 今上陛下のお気持ちの表明動画が8月8日午後3時に発表されました。NHKは列島各地、ことに被災地や最近行幸があった地域や施設などの人々がTVで聴き入る風景を流していました。暑い夏のこと、71年前の緊張を思い起こしたかつての少年少女もおられたでしょう。

 NHKが譲位のご意思をスクープしてから、メディアが憶測で語るしかない様子見の期間というものがありました。今日のメッセージはその不安や疑いを晴れさせるに十分な、はっきりとしたものだったと思っています。

 考えてみれば、日ごろから重責をか弱いお二人の身に負わせ、人権に重大な制限を課しておきながら、われわれの日頃の生活では、報道が通り過ぎるときにちょっと手を休めてTV画面をちらっと振り返るだけのような、他人事感があったのではないでしょうか。
日本学士院賞を受賞した河内良弘氏(右)から研究内容の説明を受けられる天皇、皇后両陛下=6月27日、東京都台東区
日本学士院賞を受賞した河内良弘氏(右)から研究内容の説明を受けられる天皇、皇后両陛下=6月27日、東京都台東区
 「天皇」という概念が我々から遠い御簾の向こうの事柄であるという感覚は、人間宣言を行った昭和の時代から平成に移っても変わりませんでした。敗戦後しばらくたっても、昭和天皇の戦争責任をめぐる議論がくすぶり続けた影響は大きかったでしょう。そして「象徴」という現憲法における位置づけの分かりにくさもあり、殊に儀式と日本各地の訪問に力を入れてこられた今上陛下については、儀式好きな温和な天皇像という形でしか伝わってこなかったようにも思います。しかし、今上陛下は明治以来初めて、君主としてではなく即位された方です。古の儀式の復興に力を入れてこられたのも、日本各地を地道に回られたのも、本日のメッセージの格調高さと力強さ、そこに現れた知的な物事の把握力から推し量るに、決して故なきことではなかったのではないか、と今となっては思われるわけです。

 いくつかの論点に従ってみていきましょう。

「個人」としての思い


 そこに現れていたのは、まずはいささか強く発音された「個人」としての思いです。

 個人としてまず今上が示されたのは思いやりでした。「天皇の終焉」(崩御のこと)時に生じるもがりの行事や、2年に及ぶ儀式の連続による家族の負担に馳せた思い。超高齢化社会において今上のみならず皇后陛下にも生じている負担と、公務を思うように果たせないことへのくやしさ。遠隔の地や島々への旅を含め、全国各地を訪れることが象徴行為として重要だとしたように、各地の国民と交流を重視する今上の公務負担は想像を絶するものです。

 さらには、「天皇の終焉」間際の社会のはばかりや騒ぎ、崩御の際の長きにわたる社会の停滞。それを迷惑というのでもなく、はばかるのでもなく、むしろ当然のように淡々と述べた態度に、私はむしろ陛下の自信を見たような気がしました。国民の理解を得、国民とつながっていることに対する自負です。

 今回のビデオ放映は、民衆とともにある天皇という自画像への、陛下の多大な責任感があらわになった瞬間だったということです。それは災害時に駆けつけ、人々に会って話を聞き、また皇居にあって祈るという形ではよく知られたお姿ではありますが、踏み込んでいえば、平成の時代に復古された民間信仰としての国民統合の象徴という解釈だったのかもしれません。では、今上が今回お示しになった国民統合の象徴という立場は、昭和の軍部支配がなされたときの天皇観とはどのような点で対立するものであり、また明治政府の築いた天皇観とどのように異なるのでしょうか。