軍部による天皇利用


 昭和の時代における軍部の独走とは、大日本帝国憲法下における天皇の統治者としての役割を利用し、政治家をバイパスして直接「ご聖断」を仰ごうというものでした。立憲政友会の結党後長きにわたる努力が実を結んで、大正デモクラシーで花開いた政党政治は、その後民意からそっぽを向かれるに至りました。軍事費節減をめぐる政党の選挙目当てでの駆け引きと、軍部の独断への妥協に反発が広がったからです。また、最終的には政党が自ら退潮して軍人に役割を譲ったのが大政翼賛会でした。一方の軍も、関東軍の暴走に見られるように、大陸へ渡った軍人が勝手に条約に準ずる覚書を締結して既成事実化したり、戦線を拡大するような無茶苦茶な状態でしたので、内部さえ、きちんと統制できていたとはいいがたいのが現実でした。

 そんななか、昭和天皇は、明治帝に倣いまたその伝統を一段と強化してことにあたりました。軍事クーデターである2.26事件を「朕が鎮圧する」といったくだりは有名ですが、まあ言ってみればドイツ帝国を作った軍事大国プロイセンの流れをくむ、カイザー(皇帝)のように、軍は同族であり自らの赤子であるという思いが強かったのだと思われます。もちろん、多くの方がご存知のように、そのように支配者として軍を愛した昭和天皇が玉音放送をすると聞くやいなや、軍の少なくない人数が叛旗を翻すまでに至ったわけですが。

美濃部達吉(wikimedia)
 軍部が推し進めたのが、明治初期の天皇主権説の歪んだ復活です。いま、日本国憲法下では主権は国民にあります。しかし、明治憲法下では主権は天皇にありました。この主権の担い手としての天皇を、生身の天皇としてみるか、一機関としてみるかについて大論争が興りました。天皇機関説の主唱者として記憶される美濃部達吉は、貴族院議員にものちに勅選された東大の法学部長であり、当時も反戦派や庶民派だったとはとても言えないナショナリストでした。ただ、美濃部は憲法学者として、天皇は天皇個人のために存在するのではなく、最高機関ではあっても一機関としての役目に縛られているのだという考え方を取っていたわけです。

 ところが、美濃部の天皇機関説では軍部は都合が悪かった。内閣の権限を弱め、外交や軍事とそれにかかわる予算を全て掌握するために、天皇だけが持っていることになっている「統帥権」の範囲を拡げたかったからです。そのため、天皇をさらに人格そのものとして神格化し、美濃部の学説を異端として廃し、表舞台から追いやりました。

 ところが戦後、美濃部は新憲法制定に強く反対しました。彼の中では大日本帝国憲法は正しく、軍部こそがそれを無視して国家をダメにした責任を負うべきだと考えたからです。しかし、その勝手なふるまいをした軍部は、戦後裁かれ、あるいは公職追放を受けていまはもういません。憲法も天皇を象徴としたため、天皇の政治利用を通じた権力の濫用の懸念はなくなりました。