「新・天皇機関説」の登場?


 では、2016年の日本においては、天皇制について意見の齟齬はないのでしょうか。どうやらそうでもなさそうです。2012年に出された自民党の改憲草案を見てみると、天皇をあたらしく「元首」と位置づけ、内閣の「助言と承認」を不敬だと思ったのか、「進言」と直しています。また、現行憲法99条では、天皇や摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員の憲法尊重と擁護義務を規定していたのが、自民の改正草案102条では、国民の憲法尊重義務をもぐりこませているほか、天皇と摂政の憲法擁護義務を削除しています。改正草案が明示するように、天皇が元首ならば、天皇やその代理を務める摂政こそ憲法を擁護してもらわなければならないのですが。

 では、自民党の改憲草案を起草しまた支持している人々は、軍部の天皇主権説へ回帰したいのか。どうもそれも違いそうです。国民主権ということははっきりと憲法草案に明記されていますし、天皇の政治・政策関与を排除する点では現行憲法と同じです。また驚くべきことに、こうした超保守的な方々が、どうも今上の御意思に疑念を投げかけ、皇室典範の改正の必要はないと言っているようなのです。

 こうした方々のオピニオン誌への寄稿を見てみると、かつての西郷どんのような暑苦しいまでの尊王の志は感じられません。そこに感じられるのは、ある種ヒヤリとするような官僚的冷たさです。杓子定規的な現行の法解釈に時折混ぜ込まれる(かくかくしかじかの混乱を)「天皇陛下は望まれていないだろう」(八木秀次「皇室典範改正の必要はない」『正論』9月号)という差し込みには、御簾の奥に今上を閉じ込めておこうとする意志があるのではないかとすら邪推してしまうほどです。あるいは、明治時代にさかのぼり、伊藤博文など憲法起草者である元老の当時の議論を援用して、譲位に伴うリスクや天皇制度の趣旨から譲位に反対する保守派の一部の態度には、天皇制度を利用して武士から建国者に上り詰めた長州閥の系譜を感じさせるところがあります。

 つまり、平たく言えば、今回の譲位の御意思を快く思わない保守派には、明治~昭和期の伊藤から美濃部のような国家主義者の血が流れているということができるのです。2012年草案に賛同するような改憲派は、「新・天皇機関説」論者と呼ぶことができるでしょう。もっとも、かつての天皇機関説が強い天皇像にかぶせられた制約に過ぎなかったのに対し、「新・天皇機関説」論者は天皇の主権も人格もなくして皇祖皇宗の伝統に閉じ込めておくことによって、より国家主義の度合いを強めているとさえ言ってよいと思います。