八木秀次(麗澤大学教授)

 8月8日午後3時、抑制された表現の中にも退位・譲位への強い意志を示された天皇陛下のビデオメッセージがテレビの画面に映し出されると、街では若者たちが足を止めて陛下の言葉に耳を傾けた。普段は天皇や皇室について強く意識することもない人たちだろう。一様に不安そうな顔をしているようだった。世論調査では8割、9割の人々が陛下の「生前退位」に賛成している。私には、これらの数字もご高齢の陛下への共感・同情とともに、自らの存在根拠が揺らいでいる人々の不安の表れのようにも思えた。自ずと昭和天皇がご病気で明日をも知れない状態であった頃、連日、皇居前に何万人という人たちが集まり、ご快癒を祈る記帳した姿を思い浮かべた。
ビデオメッセージでお気持ちを表明する天皇陛下の映像を見る人たち=8月8日午後、東京・新宿
ビデオメッセージでお気持ちを表明する天皇陛下の映像を見る人たち=8月8日午後、東京・新宿
 天皇陛下が退位・譲位へのご意向を示されたことは、天皇の位が揺らいでいることを意味している。当事者である陛下が退位・譲位の意向を示されているが、そのままご意志が実現できるかは明らかでない。皇太子殿下が皇位を継承されることは明確であるものの、それまでの間、天皇の位が不安定になっている。人々の不安な気持ちは、国家の基軸ともいうべき天皇の存在が揺らぎ、不安定になっていることの反映でもある。

 今回の陛下のご意向は、現在の皇室制度が前提としている終身在位制の否定の表明である。あるいは、いったん天皇の地位に就いたならば、崩御までその地位にあらねばならないという終身在位制と、陛下がお考えになり、追求されてきた「象徴」としての務めとが、ご高齢になるにしたがって「務め」が十分にできなくなってくることから、矛盾を来し始めているとのご指摘でもある。そのことは、「既に80を越え、(中略)次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるではないかと案じています」というお言葉によく表現されている。「象徴」としての務めを全身全霊で果たすことができない天皇は「天皇」とは言えず、そうであるなら自らは退くべきでないかとのご表明でもある。陛下がどれほどの強い責任感で「象徴」としての務めを果たして来られたかを示すものでもあり、国民の一人として限りなくありがたい。

 憲法や皇室典範などが示す現在の皇室制度はご生前での退位・譲位を想定していない。想定していないどころか、天皇の生前での退位・譲位を積極的に排除している。現在の皇室制度は明治時代の大日本帝国憲法や旧皇室典範を基本的に継承している。憲法や皇室典範の起草を主導した伊藤博文らは、皇室の歴史を入念に調査した上で、退位・譲位の慣行は皇室本来の伝統ではなく、仏教の影響によるものであり、退位・譲位を許せば、天皇の地位が不安定になり、国家が分裂する。その代表例として南北朝の混乱を挙げて、そのような混乱が生じないように退位・譲位を認めない終身在位制を確立した。