著者 茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人 九州在住)

はじめに


 日本と韓国との間の竹島領有権問題は、1952(昭和27)年1月に韓国が「李承晩ライン」を設定し、その中に竹島を取り込んだことから始まった。竹島(韓国では「独島」と呼ぶ)は江戸時代には日本人が自由に利用していた歴史的事実があり、さらに1905(明治38)1月に明治政府は閣議決定によって竹島を公式に日本の領土とした。その間、朝鮮・韓国の政府が竹島に関与したことは何もなかった。

   しかし今、韓国政府は「独島は、歴史的・地理的・国際法的に明らかに韓国固有の領土です。独島をめぐる領有権紛争は存在せず、独島は外交交渉および司法的解決の対象にはなり得ません」とした上で、「1905年日本による独島編入の試みは長きに亘って固く確立された韓国の領土主権を侵害した不法行為であるため、国際法的にも全く効力がありません」(韓国外務部『韓国の美しい島 独島』)と述べ、国際法上正当な日本の竹島領土編入を、韓国の領土であった島を日本が不法に奪取したものとして非難する。

 しかしながら、実は日本の竹島領土編入から約1年後の1906年、韓国政府(当時は大韓帝国政府)は日本が竹島を領土としたことに異議がないと解釈される文書を発していた。このことは一般にはあまり知られていないと思われるので、本稿で紹介してみたい。
産経新聞社が昭和28年12月に撮影した竹島.現在ある韓国の工作物は見当たらない
産経新聞社が昭和28年12月に撮影した竹島。現在ある韓国の工作物は見当たらない


「鬱島郡の配置顛末」 

 1906年7月13日付の韓国の皇城新聞に「鬱島郡の配置顛末」という見出しの記事がある。文面を現代日本語に訳すればおよそ次のようなものである。

鬱島郡の配置顛末

 統監府から内務部に公函があって、江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡庁の設置年月を示せということなので回答が行われ、光武2年5月20日に鬱陵島監を置いたが、光武4年(1900年)10月25日に政府会議を経て郡守を配置した。郡庁は台霞洞にあり、当該郡の所管島は竹島・石島で、東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里だということである。

 この記事によれば、1906年7月上旬ごろ、当時韓国に置かれていた日本の韓国統監府から韓国政府内務部に宛てて鬱陵島に関する照会があった。照会事項は「鬱陵島の所属島嶼」と「郡庁の設置年月」だという。これに対する回答内容は、鬱陵島には1898年から「島監」という名称の行政責任者を置いていたが、1900年に政府の決定によって新たに「郡守」を置くこととなったこと、郡庁の所在地は台霞洞(「洞」は「村」のような意味)にあり、郡の付属島嶼は「竹島と石島」であることを述べ、最後に「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」という一読しただけでは何を意味しているものか読み取りにくい説明が付されている。

 この回答は、基本的には1900年10月27日施行の大韓帝国勅令第41号を説明したものだ。この当時、鬱陵島には多くの日本人が不法に越境渡航して、勝手に古木を伐採搬出したり韓国人島民を圧迫するなどの行為が行われていたため、韓国政府としては鬱陵島に対する監視を強化する必要性を感じていた。その方策の一つとして制定された法令が勅令41号「鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正する件」で、そこでは鬱陵島を「鬱島郡」に格上げして郡守を置くこととし、「郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄する」と規定された。

   このように、前記の新聞記事にある回答内容はほとんど勅令41号をそのまま説明したものなのだが、末尾の「東西が60里・・・・・・」の部分は勅令に規定されたものではなく、回答する際に独自に付け加えられたものと見える。