中里幸聖(大和総研金融調査部主任研究員)

 
 織田信長のキャッチフレーズとも言える「天下布武」の途上で行った様々な施策は、日本経済再生のヒントに満ちている。楽市楽座の推進や関所撤廃などは有名であり、1990年代には旧経済企画庁が「楽市楽座研究会」を立ち上げ、当時の規制緩和に関する議論を展開している。楽市楽座については美濃の斎藤道三に見習ったという説もあるように、信長の個々の実績は必ずしも彼独自のものばかりではない。しかし、それらを総合的に実施したことが天下統一に信長が最初に近づけた要素であり、豊臣秀吉も徳川家康もそうした要素を引き継いでいる。

織田信長像=滋賀県のJR安土駅前
織田信長像=滋賀県のJR安土駅前
 そもそも、「天下布武」は武力を持って天下を統一するという意味で捉えられがちだが、当時は武力による争いを収めて平和な世の中を構築するという意味で捉えられていたと考えられる。明智憲三郎『織田信長 四三三年目の真実』(幻冬舎、2015年)によると「武とは戈を止めて用いないという字」であり、「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させること)という七徳を備えるべき」という楚の荘王の「七徳の武」という逸話が戦国武将に認識されていたという。この説に従うならば、人民の生活安定や経済繁栄という意味が「天下布武」というキャッチフレーズそのものに含まれており、信長の天下統一事業は経済政策を包含していたと言えよう。

 信長が足利義昭を奉じて上洛した際、義昭から副将軍の地位を打診されたが断り、国際的貿易拠点である堺を望んだことに象徴されるように、信長は商業貿易拠点を押さえることを志向していた。そもそも尾張時代に東海地方の商業貿易拠点の津島を押さえていたことが、信長の経済力の基礎の一つとなっている。また、伊勢、若狭、越前などの攻略も商業貿易拠点を押さえることが目的の一つであったと考えられる。これらの拠点を琵琶湖を核としてネットワーク化すると日本海側と太平洋側を結ぶ一大交易網が現出することとなる。堺も含めれば、瀬戸内海にも通ずる。