小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 織田家の家紋は木瓜(もっこう)であるが、戦場で使う信長の旗印は「永楽通宝」だった。「銭の力で戦いに勝ち抜く」という信長の決意のあらわれでもあった。

 信長が銭の力を意識したのは父信秀の影響が大きかったといわれている。信秀は、尾張守護斯波(しば)氏の二人いた守護代のうち、清須織田氏の三奉行の一人にすぎなかったが、居城勝幡(しょばた)城の近く、木曾川舟運で栄えていた津島湊を押さえ、そこから得た財力で、やがて尾張中原(ちゅうげん)に打って出て、尾張一国をほぼ手中にしていった。
 そのあとを受けた信長は、さらに商品流通経済の振興に力を入れ、経済政策に積極的に取りくんでいる。楽市楽座政策がその一つとしてよく知られているが、これ自体は信長のオリジナルではなく、すでに南近江の戦国大名六角氏がはじめており、信長以前にも何人かの戦国大名が取りくんでいる。

 信長独自の新しい施策として注目されるのは、関所の撤廃と道路政策ではないかと思われる。関所というと、江戸時代の関所のイメージ、すなわち、「入り鉄砲に出女(でおんな)」などといわれるように、監視のための関所を思い浮かべるが、信長が撤廃した関所というのは別なものであった。

 信長のころまで、荘園がまだ残っていた。荘園領主が、自分の荘園の中を通る道に関所を設け、通行人から関銭(せきせん)、つまり通行税を取っていたのである。それが荘園領主の収入源となっていたわけであるが、商人たちには負担だった。商人も、自分が損するわけにはいかないので、関銭分を商品価格に上乗せする。値段が高くなれば売れないわけで、物流は停滞する形だった。

 信長は、その様子をみて、商品流通を活発にするのと、荘園領主の力を削ぐため、関所の撤廃にふみきったわけである。そしてもう一つ注目されるのが道路政策、インフラ整備である。