佐々木一成(Plus-handicap編集長) 

 今から3年前の2013年8月末。「24時間テレビにナメられてしまっている障害者の現在地」という記事を書いてみた。障害者が社会に出ていかないから「御涙頂戴」の材料として障害者が描かれるんですよと発信してみたら、ものの見事に炎上した。

 「24時間テレビの何が悪い」「障害理解に一役買っている」「僕だって出たい」そんな反応とコメントが主にtwitterを経由して届いた。24時間テレビがもつ「障害者×感動」の方程式に、NHKのバリバラが斬り込んだ今年を思うと、3年前って多くのひとが24時間テレビに対して割と肯定的だったんだなと思い出すことができる。

 この3年間に何があったのか。おそらく「障害者は感動ポルノとして健常者に消費される」というタイトルの記事が出回ったことが大きい。

 オーストラリアのコメディアン、ステラ・ヤング氏が2014年のTEDxSydneyに出演した際のプレゼンの紹介記事が大きな反響を呼んだ。障害当事者やその家族、支援者だけでなく、ネットメディアで情報を得る多くのひとがこの記事に賛同していた。

 「お前、障害者のこととか興味あったの?」と勘繰りたくなる地元の悪友でさえ「感動ポルノなんて気持ち悪い」とか言う始末。障害者をどう報じるか、どう取り扱うかというテーマが市民権を得たのは、ここ最近の話である。

24時間テレビのオープニング。左から徳光和夫、波瑠=
8月27日、東京都千代田区
24時間テレビのオープニング。左から徳光和夫、波瑠= 8月27日、東京都千代田区
 「障害者×◯◯」という方程式に感動を代入しますか? 笑いを代入しますか? これが24時間テレビとバリバラの分かりやすい構図だが、実は、そんなことはどうでもいい話で、そもそも「障害者が何かをやる」という前提で企画を練る発想に、違和感を覚える。

 この国には「障害者フィルター」が存在している。障害者が何かをやるだけですごいと思ってしまう価値観フィルターだ。健常者(何をもって健常者というか怪しくなってきた気がするが)と違い、どこかに障害を抱えているから障害者であるわけで、その障害分のマイナスをパフォーマンスで補ったとき、ひとは「すごい」と感じるスイッチを入れてしまうのである。「障害者×◯◯」という式は、この「障害者フィルター」を前提条件に企画や演出方法を考えている。
 
 「障害者フィルター」の厄介なところは、そもそものOKラインを一般社会のものから低いハードルで位置づけてしまうことにある。仕事でもスポーツでも何でもいいのだが、障害者が何かをやるときに健常者と同じだけの成果が求められるかというと、それは否であり、同じことをやるだけで「すごい」のである。

 もちろん、障害が理由でできないことがある分、すべてを健常者と同じ水準で求めるのは酷なことだが、その確認をせずとも、「これくらいでOKだよ、ありがとう」というOKラインが下がるのである。そして実は、OKラインが自動的に下がることを自覚している障害者は一定数いる。

 社会側の無知という状態、社会側が無知であると認識している障害者側。双方の見えない合意の元で「障害者フィルター」が確実に存在している。これを巧みに演出すれば「感動ポルノ」に仕立てられるし、意地悪く使えば「障害者に遠慮して何も言えない」状態を創り出すことができる。なんだかんだ言って、持ちつ持たれつなのだ。