いつもそばにある「こち亀」は私たちの精神的支柱だった

『鈴木涼美』

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鈴木涼美(社会学者)

 オトコを街に例えるとして、分かりやすく六本木や霞が関や渋谷や歌舞伎町のオトコなんていうのは顔が浮かびやすく、当然、オンナとしてはそういう男たちに愛されたい。逆に北海道や大阪なんていうのもまたそれはそれでオンナとしては愛されて損はないというか好きなひとは好きという感じがしなくもない。蒲田とか綾瀬とかのオトコも私は個人的に嫌いじゃない。葛飾区っぽいオトコってどんなだろうか。中肉中背の郵便局員、あるいはスーパーの店員。さしずめそんなところであろう。
JR亀有駅前にある制服姿の両さん像。横断歩道を挟んで背後にあるのがモデルとなった北口交番
 こち亀の主な舞台は葛飾区である。葛飾区、響きからして冴えない区である。私は新聞記者時代、地方行政の取材をしていて担当は東京都と23区のいくつか。都庁担当の記者数人が23区をそれぞれ5~6区担当するのだが、当然話題が豊富な渋谷区や港区、千代田区や新宿区というのが記事も書きやすいし人気なわけで、次点としてスカイツリー建設中だった墨田区や、商店街振興なんかが暇ネタになる品川区、人口急増してこの時代に珍しく学校新設なんかがされてる江東区、待機児童ネタがつきない世田谷区、都の文化施設が結構あって何かと改修されたりする台東区なんかがあった。バランスがいいように、各自の担当は人気区が1~2個、次点が2~3個、などと分かれており、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区、杉並区など、別に住んでもいいけど記者的にはそんなに食指が動かない影の薄い区がおまけでくっついてくるというのが定石だった。

 というわけで私は、渋谷・新宿・品川・世田谷のほかに葛飾区と大田区も担当することになり、生まれて数回目に京成線に乗って立石にある葛飾区役所なんかを訪問したりなんかした。東京って広いので、新宿スワンも東京、六本木心中も東京、こち亀も東京である。葛飾区に関する記事で、次年度予算の事業計画の他に書いた記憶のあるのが、亀有駅周辺に、区がこち亀の銅像を設置したという話と、それが何者かによって故意に破損されたという話である。で、亀有駅なんて一生降り立つことはないと思っていた駅で降りて銅像の写真を撮ったり、記者クラブへのおみやげにこち亀饅頭的な物を買ったりしたものである。
葛飾区っぽいオトコではない葛飾区のオトコ

 漫画には二種類あって、ひたすら引き込まれてやめられなくなるものと、常にそこにあって好きなときに手に取り好きなときにまたそこに置けるもの。後者の代表格であるように感じられるこち亀だが、それは単純に長く連載されていたとか、人が死なないとか、主人公が男前じゃないとか、ロマンチックラブがないとかっていうことではなく、おそらく葛飾区にカギがある。

(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社
 こち亀は必ずしもほのぼのとした話ではない。そういう意味ではサザエさんやあさりちゃんとは大分異質である。過激で国際的な回もあるし、暴れるし、時空まで超える。しかし、次回には必ず冴えない葛飾区のさらにしみったれた亀有に戻っているのである。日常というのはそう簡単にそこから逃れられない退屈で平坦なものだし、多くの私たちにとってそれはとても冴えない。けれども一度そこから引き剥がされると急に心細くなり、平坦で退屈だった日常を懐かしみ、戻りたいと願う。離れてみるとその盤石さと力強さが愛おしくなるのである。

 日常というのを地元、と置き換えることもできる。地元が表参道であるとかいうすかしたレア人間は別として、多くの人の地元はギラギラとした刺激もスラム街のようなひりひり感もない、退屈なものである。ただし、そこから離れるとなんだか駅前の原色の看板やパチンコ屋でタバコ吸ってるオジサンや公営住宅の脇の公園とかが妙に懐かしく、恋しく感じられる。日常というのは、地元というのは、まさに葛飾区なのである。冴えなくてつまらなくて、恋しい。

 こち亀は別に平坦な日常のヒトコマを描いた作品ではないし、両さんも退屈なオトコではない。しかし、葛飾区という圧倒的に平坦な冠をつけることで、常にそこにある漫画として孤高の位置まで上り詰めている。両さんは冒頭で言う葛飾区っぽいオトコではない。野性的でエロくて暴れん坊である。ただし、葛飾区のオトコであることに変わりない。これが六本木や渋谷でなく、またちぇるちぇるランドやこりん星やナルニア国でないことは極めて重要である。さらに、舞台が派出所、つまり警察という、言ってみれば我々住民の日常を守るべく設置された国家機関であることも当然それをさらに強いものにする。

 平坦な街を飛び出し、事件が起こり、退屈な日常をドラマチックに補完する。これはフィクションの大きな役割である。しかし、その根底に、私たちの日常よりもさらに安定した平坦で冴えない日常の時間が流れていること。これもまたフィクションのドラマチックさとは別の役割でもある。私たちの日常は退屈だが、同時に不安定であるのも確かだからである。つまらないくせに、失うとなかなか取り戻せないもの。それをノット・ドラマチックに補完するフィクション、私たちはこち亀の連載終了で、大きな精神的支柱を失うことになる。

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