「連載」という形式での「おはなし」というのは、何も活字やそれに類する紙に印刷された媒体に限らず、寄席その他の生身の上演や口演における続きものなども含めて、どうやらわれらの社会にある時期以降、宿ってきたものだった。新聞や雑誌には連載小説があったし、それらは売り上げを左右する重要なコンテンツでもあった。

 NHKの「朝ドラ」がいまだに「連続テレビ小説」と称していることを思い起こしてもらってもいい。それまで月刊だった子ども向け雑誌が週刊になり、活字主体の読み物など他のコンテンツと並べられていたマンガが独立した専門誌になっていったのは高度経済成長の始まるころ。ラジオもまた、戦前はともかく戦後はそれら続きものを主な武器にしてきたし、新しいメディアのテレビもまたその習性に従った。

 新たな情報環境に宿る「連載」「続きもの」の「おはなし」は、そのようなわれらの日常、日々の暮らしの当たり前になってゆき、それらを介して浸透してゆく価値観や世界観、素朴な道徳や世を生きてゆく上での約束事といったものもまた、わざわざそうと意識せずともある種の「教養」として人々に共有されるようになっていった。それはわれらの社会における「意識されざる公教育」でもあったのだ。

 そのように「連載」「続きモノ」としての「おはなし」をそれこそまるで空気のように、自然に当たり前に呼吸する、いや呼吸できる環境にわれわれは生まれ、育ってきたらしい。週刊誌のマンガ専門媒体が複数林立し、それらが最盛期には数百万部規模での市場を獲得、当然読み手もまたそのオーダーで編成されていった社会、そして時代というのがすでにあった。そのことの意味やとんでもなさについて、おそらく当のわれら日本人自身がいまだよく思い至っていない。「サブカルチャー」などという目新し気なモノ言いでひとくくりにして事足れりという考えなしが昨今、また事態をさらに不透明にしてゆき、同情薄い「分析」「解釈」「批評」のひからびたことばの手癖だけが得意げにそれらを後押ししてゆく。
(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社
 けれども、確かなことがある。今回の「こち亀」終了をめぐって、メディアの舞台の外で、さまざまな人たちがさまざまにその「想い」を語っている。もちろん単行本を全部揃えているという人は少ないだろう。けれども、人生のある時期「こち亀」と出会ってそのことから何かを受け止めていっただろう、国民的規模での「意識されざる公教育」の果実は、全て見通すことはできずとも、間違いなくこの時代の眼前にある。

 40年という年月、単行本にして延べ200巻という規模の「おはなし」の集積は、おそらく「研究」や「批評」「評論」の土俵に正当に乗せられるまでにはまだしばらくかかるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。マンガは昔も今も、正しく「通俗」であり、通俗であるがゆえの「リアル」を静かに宿しながら眼前にたたずんでいる。「こち亀」がいま、自ら幕引きすることで思い至らせてくれたそのことは、あらゆる知的な言葉やモノ言いが軒並み煮崩れ、信頼を失いつつあるかに見える今、この時代の日本語環境において、それらの言葉の失地回復を志す立場にとっての福音にもなるはずだ。