平山優(歴史研究家、大河ドラマ『真田丸』時代考証)

真田父子の降伏と信之の嘆願


 通説によると、真田信之は、父昌幸と弟信繁に死罪を命じようとした家康を懸命に説得し、高野山追放を勝ち取ったとされる。しかし、近年指摘されるように、関ヶ原合戦で処刑されたのは、首謀者の石田三成・安国寺恵瓊・小西行長の3名のみであり、西軍に属して戦った武将も、降伏後はすべて助命されている。昌幸と信繁が処刑されそうだったというのは、信之の孝養と業績を讃えるために創作されたものだろう。

 ただし、高野山追放とはいえ、彼らの処置が死罪に次いで重かったのは事実である。追放処分は、八丈島に流罪となった宇喜多秀家とならぶものであった。やはり、秀忠軍と戦い、破ったことが響いたのだろう。

 父と弟の赦免のため、真田信之は上洛を果たした。大坂の真田屋敷にいた家臣河原綱家らは、上田城内で焦燥しているであろう昌幸を見舞う書状を出した。それに対し昌幸は、某月(欠損による)二十二日付で上田城から返書を出し、本当ならば自分自身が上洛し、家康に謝罪したいが、それもままならない。今は、信之が上洛して詫び言を行うことになっている。信之からの返事が来たら、そちらにも知らせることにしようと述べている。
板挟みに苦しめられながらも成長した真田信之(大泉洋)
板挟みに苦しめられながらも成長した真田信之(大泉洋)
 また某月(欠損による)15日付の昌幸書状も、第二次上田合戦後から追放までの間に、河原らに出されたものである。これは欠損が激しく、判読が困難であるが、昌幸の妻山之手殿らが真田方に確保されたこと、信之が上洛したこと、そして伏見に参上したことなどが読みとれる。山之手殿らは、三成挙兵後、西軍に身柄を確保されていたから、それを真田氏が受け取ったのであろう。

 昌幸は、家族の無事を知り、喜んでいる。そして信之が上洛し、伏見城で家康に嘆願することになっていたとみられる。最も有名な逸話として、信之の嘆願に、舅本多忠勝が同調し、家康を説得したというものがある。本多氏は、その後も、真田信之の嘆願を援助しているので、これは事実なのだろう。

 信之は、おそらく追放処分などもない赦免を嘆願したとみられるが、結局家康は、上田城に籠城し抗戦したことを許さず、高野山に追放を命じた。かくて昌幸・信繁父子の処分が確定したのである。12月13日、真田父子は上田城を開城し、徳川方に引き渡すと、高野山に出発した。上田城の受け取りは諏方頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らが行い、そのまま城番として城の警固にあたった。
 

父と弟の高野山追放


 高野山に追放された時、昌幸は当時54歳、信繁は30代前半であった。信之は、父と弟に、家臣を随行させている。真田家の記録によると、それらは、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田角左衛門(作之丞とも)、川野(河野)清右衛門、青木半左衛門、大瀬儀八郎、飯島市之丞、石井舎人、前嶋作左衛門、関口角左衛門、関口忠左衛門、三井仁兵衛(仁左衛門とも)、青木清庵(春庵とも)の16人だったと伝わる。