松平定知



  真田の家名を後世に残すため、真田家の当主、昌幸は、息子2人を敵味方に分けて関ヶ原の戦いに向かわせることにしたことは昨日、触れた。これを知った徳川秀忠は、関ヶ原直前、味方についた「兄」信之(信幸)に、敵側の「弟」幸村(信繁)のいる砥石(といし)城(長野県上田市)を攻めさせた(第2次上田戦争)。

 幸村は「兄さんとの直接対決なんて」と、さっさと砥石城を捨てるのだが、これは大勢にはさして影響はなかった。昌幸・幸村軍の15倍の兵力を持っていた秀忠軍は(上田城攻めでは)その油断もあって、押しまくられ、逃げさせられ、結果として関ヶ原の本戦に大遅刻する。秀忠軍がようよう駆けつけたときには、もう戦いは終わっていたという体たらくだった。

 15年前の第1次上田戦争で恥をかかされた家康ともども、家康・秀忠父子の、昌幸・幸村父子に対する怨念は深い。そんな昌幸・幸村父子が、関ヶ原後も殺されなかったのは、一にかかって、「兄」信之と、その岳父で、家康の側近中の側近、本多忠勝の尽力のおかげである。

 さらに、「弟」幸村のその後の14年にわたる九度山(くどやま、和歌山県九度山町)時代、「兄」信之は、徳川系の真田の女性も総動員して、物心両面で、この「弟」幸村を援助し続けた。立場こそ違え、2人は、基本的には「仲良し兄弟」だったのだ。