平山優(歴史研究家、大河ドラマ『真田丸』時代考証)

犬伏の別れ


 真田昌幸・信之・信繁父子は、家康の動員に従い、宇都宮を目指していた。彼らの出陣の時期は明らかでない。この時、昌幸・信繁父子は上田から、信之は沼田から出陣したらしい。小諸城主仙石秀康家臣が後に記した「おほへ」(信補遺下六九)によると、真田昌幸・信繁父子は碓氷峠を越えて下野国に向かった。事前の取り決めで、小諸城主仙石秀康が先に出陣し、真田父子はその後に続く予定だったが、昌幸が所用ありと仙石氏に申し入れ、先に碓氷峠を越える諒解を取り付けたという。
真田昌幸(草刈正雄、左)は、自らの思いを息子の信之(大泉洋、右)と信繁(堺雅人、中央)に伝えた
真田昌幸(草刈正雄、左)は、自らの思いを息子の信之(大泉洋、右)と信繁(堺雅人、中央)に伝えた
 そして上野国板鼻に真田父子は到着すると、在陣したまま動かなかったという。後から仙石秀康が到着すると、今度は予定通り、先に仙石軍を通過させ、真田父子は後を追った。この急ぎの用事とは何であったか、不明である。おそらく、昌幸は息子信之との合流を急いだものの、信之の到着が予定より遅れたため、仙石軍を予定通り先に通したのであろうか。信之としては、沼田から直接宇都宮に向かったほうが、遙かに近い。それなのに、父昌幸・弟信繁と上野国板鼻で合流したのには、何か理由があるのだろう。これは、緊迫する上方情勢と無関係ではなかろう。

 真田昌幸・信之・信繁父子は、徳川家康との合流を目指し、宇都宮に向かっていたが、下野国佐野表に着陣、ここで一泊することとした。通説では、父子3人は、下野国犬伏宿にいたことになっている。だが黒田基樹氏の研究によれば、昌幸・信繁は天明宿、信之が犬伏宿に在陣していたとされる。着陣した日程ははっきりしないが、概ね7月21日のことと指摘される。

 ところがその夜、昌幸のもとに、石田三成が派遣した使者が到着し、7月17日付の「内府ちがひの条々」と三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)連署状が届けられた。これを知った昌幸は、陣所に信之・信繁兄弟を呼び寄せ、人払いを厳命し密談を行い、話し合いの結果、昌幸・信繁と信之は袂を分かち、前者は石田方に、後者は徳川方に味方することになったとされる。これが世にいう「犬伏の別れ」であるが、黒田氏は昌幸・信繁の在陣地天明宿に信之が訪問したと推定し、「天明の別れ」が正しいと主張している。

 この密談の内容については、『長国寺殿御事蹟稿』を始めとする後世の軍記物しか頼る史料がなく、しかも内容はほぼ一致している。それらによると、三者が密談の席につくと、昌幸は即座に西軍につく決意を明かし、信繁はすぐ父に同意した。西軍は、真田父子に、信濃一国を与えることを確約していたことも大きかった。

 だが信之は、これほど重要な事柄について、軽率に判断できないし、内府家康の動員に応じてここまで出陣して来た以上、今さら逆心を企てるのは如何と昌幸を諫めたという。昌幸は、信之の言い分は正しいが、天下が再び大乱を迎えようとする時流を利用し、家を拡大させ大望を成し遂げるのが武将の生き様だと主張し、譲らなかった。昌幸は、信之説得に努めたが、信之は翻意しなかった。

 窮した昌幸は、家臣坂巻夕庵を召し出し、事情を説明して信之説得に加勢するよう求めたが、信之の性格を熟知する夕庵は、今さら説得しても無駄だと辞退したため、父子は別々の道を歩むことになったという(『滋野世記』)。

 昌幸・信繁と、信之が袂を分かった背景として、信之は徳川重臣本多忠勝の息女(小松殿)を、信繁は豊臣重臣大谷吉継の息女をそれぞれ正室としているため、双方が話し合いのすえ敵味方に別れることになったとか、昌幸は年来家康に恨みを抱いていたので、これを幸いに西軍につくこととし信繁がこれに賛同した、など様々に語り継がれている。

 また『河原綱家家記』には、父子が厳重な人払いのうえで密談していることを心配した重臣河原右京亮綱家が様子を見に行ったところ、昌幸が烈火の如く怒り、下駄を投げつけたといい、それが綱家の前歯に当たり、彼は生涯前歯が欠けたままだったと記されている。だが残念ながら、河原綱家は、この時大坂にいたことが明らかなので、この有名な逸話は、後世の創作であろう。