俺にもノーベル賞のチャンスはある! 湯川秀樹の背中を追った日本人

『岡本拓司』

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岡本拓司(東京大学大学院総合文化研究科准教授)

 2000年以降、日本人のノーベル賞受賞者(以下、物理学、化学、生理学・医学の自然科学3賞を指す)が増えていることが注目されている。日本人といっても国籍が日本ではない受賞者や、受賞対象となった研究が国外で行われた受賞者もいるが、日本で高等教育を受けた人々による日本で行われた研究が受賞する例が格段に増えていることは間違いない。

 近年の受賞者が受賞対象となった研究を行ったのは、おおよそ1960年代から1990年代であり、戦後の復興から脱した日本が次の段階に向けた成長を遂げた時期であった。研究が行われた環境は個々の場合によって異なる。しかし、戦後、若干でも余裕が生じた時期に、能力のある若者が科学研究に進み、独創性に富む研究を行うようになったことの淵源は、日本の科学の歴史の中に見出すことができる。

夏目漱石
 日本が大規模に西洋由来の科学を導入するようになったのは明治維新後のことである。とはいえ明治初期は学習に忙しく、研究を志す若者が目立つようになるのは明治20年頃になってからであった。当時、ほとんどが外国語で書かれていた教科書を開けば、目に入るのは西洋人の名前ばかりであるから、日本人あるいは東洋人が果たして研究を行う能力を持つのかどうかさえいぶかしく、一生を研究に捧げようと決意するには勇気が必要であった。たとえば物理学者の長岡半太郎は、東洋人には独創的な科学研究を行う能力がないのではないかと考えたが、中国の古典を紐解き、オーロラや地磁気の発見は中国人が西洋人に先駆けて行っていることを見出したうえで、ようやく安心して物理学に進んだ。

 長岡の場合は、東洋人も西洋人に負けない学術上の貢献を行いうることを見せたいという強い熱意を持っており、これが学問に進んだ動機の一つであった。明治半ばの学問を志す若者の間では、こうした意欲の持ち方は珍しくはなく、夏目漱石は英文で優れた著作を送り出し世界に問いたいとして英文学を専攻し、近代鳩山家の祖の鳩山和夫は法学をそのような場として選んだ。医学者の北里柴三郎がドイツ留学によって研鑽を積みたいと考えたのも学術で世界に知られた日本人がいないことを憂えてのことであった。

 個別の学問への理解が進むと、しかし、世界に挑戦するのに適した領域と、そうではない領域があることが次第に気付かれていった。夏目漱石は年少の友人で物理学を志す寺田寅彦に、科学はコスモポリタン的性格をもつが英文学ではそうではないとロンドンから書き送り、鳩山和夫も国ごとの違いの大きい法学では世界規模での挑戦はできないと息子に語っている。世界を舞台にした競争や、西洋への挑戦は、どの学問分野でも行いうるというわけではなく、長岡の選んだ物理学や北里の進んだ医学、すなわち自然科学という領域においてより成立しやすい。
山極勝三郎への評価で生じたノーベル賞への不信感

北里柴三郎
 もちろん、科学を生み育ててきた西洋の伝統は長く、日本からの挑戦は容易には成果を生まなかった。20世紀初めには、挑戦の成果を最もわかりやすく示すノーベル賞が誕生しており、北里柴三郎がその初回の賞に推薦されるなど、日本の科学者もごく初期から関わりは持っていた。しかし、受賞というかたちで挑戦の成果が現れることは、戦前期にはなかった。

 戦前期でも、日本人が健闘した例はある。山極勝三郎が1915年に世界で初めて人工的に癌を発生させたのは最も顕著な研究であり、1925年に日本から、翌年にはドイツから、ノーベル賞への推薦があった。しかし、同系統とみなされた研究で1927年にデンマーク人がノーベル賞を単独で受賞し、1930年に山極が死去すると(死者にはノーベル賞は授与されない)、関係者は、これほどの業績も西洋人は評価しないのかと落胆した。東洋人に対しては偏見があり、学術上の評価もそうした偏見に左右されているのではないかともささやかれるようになった。

 物理学賞については、長岡半太郎は長年にわたってノーベル物理学賞の選考委員会から推薦を依頼されていたが、1910年代から1938年に至るまでに彼が推薦したのはすべて外国人であり、この期間には彼が評価するに値すると判断できる研究者は、日本からは現れなかった。1940年になって長岡は初めて日本人の名前を挙げたが、そのときの候補者が湯川秀樹であり、推薦の対象とした研究は湯川の中間子論であった。この時点では湯川の理論は実験的な確証が得られていなかったが、1947年に宇宙線中に中間子が発見され、1949年に湯川は日本の科学者として初めてノーベル賞を受賞することになる。

 1945年に太平洋戦争が終結したばかりであり、この戦争では日本は「科学戦」に敗れたとする指摘もまだ声高に唱えられていた時期であったから、1949年の湯川のノーベル賞受賞は国民全体に大きな自信を与えた。当時すでに日本の原子核・素粒子物理学は世界的水準にあったが、自身の能力を試したいと思う若者がこの領域にさらに流れ込んだ。2016年現在に至っても、日本のノーベル賞受賞者のうち6名(米国籍の南部陽一郎を含めれば7名)はこの領域、あるいは関連領域の研究者である。湯川の受賞を見て、素粒子物理学は無理でも物理学のその他の領域に、あるいは物理学ではなくともそれ以外の科学の領域に進んだ若者も多かったものと思われる。
湯川の受賞で高まったノーベル賞への「信頼」

 ほかの領域ではなく物理学で日本からの「挑戦」が成功した事情を理解するには、日本のみならず世界の状況をも考える必要がある。エックス線の発見などに端を発する、19世紀末から続いた物理学上の変革は、1930年代に至って量子力学という新しい基礎理論の誕生という帰結をもたらしていた。物理学研究を行うための枠組みはこれによって大きく変化し、17世紀末のニュートン力学の誕生に次ぐ変革がこの分野にもたらされた。

湯川秀樹=昭和42年7月
 基本的な規則の変更であったから、旧来の科学研究において長い伝統をもつ地域の人々が必ずしも有利なわけではなく、新たに科学研究に参加した地域の人々のほうが、新しい発想や方法に基づく研究で成果を挙げるという事態が生じた。そのような集団として目覚ましい躍進を遂げたのはアメリカの物理学者たちであったが、日本でも小規模ではあったが同様の事態が生じた。1937年に日本を訪れたニールス・ボーアに、湯川が自身の中間子論(発表は1934年)の構想を話したところ、ボーアは「新しい粒子が好きなんだね」と軽くあしらった。しかしボーアが日本を離れて間もなく、その中間子が前年に宇宙線中で発見されていたという報告がアメリカで行われ、湯川の理論は世界の研究者の関心を集めるようになる。

 結果的には1936年に発見された粒子は中間子ではなかったが、上述のように第二次大戦後に湯川の理論は実験的確証を得てノーベル賞を受賞し、素粒子物理学は日本が高い国際競争力を誇る領域となった。さらに、日本人・東洋人であっても、有無を言わせぬ成果を挙げればノーベル賞の選考者はこれを評価するということも明らかになった。長岡の例で見たように、物理学賞や化学賞では、戦前に日本人が推薦された例は極めて少なく、物理学賞で本多光太郎と湯川秀樹、化学賞で秦佐八郎と鈴木梅太郎が候補になっているのみであるが、湯川が受賞して以降、1965年に朝永振一郎が物理学賞を受賞するまでに、朝比奈泰彦、外山修之、水島三一郎、山藤一雄が日本の科学者によって推薦されている。ノーベル賞に対する信頼や期待が、湯川の受賞によって高まったことがわかる。

 明治期以降、日本の科学者が積み重ねてきた努力が、国際的な学問の潮流と相まって、ノーベル賞受賞という分かりやすいかたちでの成果が最初にもたらされたのが素粒子論、物理学においてであった。科学分野において突破口を開いたこの領域は日本の誇る研究分野であり続けている。同時に、湯川秀樹の受賞は、日本人も科学研究において第一級の成果を挙げることが可能であり、また優れた成果であれば日本人のものであっても公正に国際的評価が与えられることを明らかにした。1949年という時期にこのことが明示されたという事実は、日本の社会、特に知的能力に自信をもつ若者たちの間で、科学研究への期待と研究業績に対する国際的評価への信頼が回復し、その後も維持され続けていくうえで大きな意味を持ったと考えられる。

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