北里柴三郎
 もちろん、科学を生み育ててきた西洋の伝統は長く、日本からの挑戦は容易には成果を生まなかった。20世紀初めには、挑戦の成果を最もわかりやすく示すノーベル賞が誕生しており、北里柴三郎がその初回の賞に推薦されるなど、日本の科学者もごく初期から関わりは持っていた。しかし、受賞というかたちで挑戦の成果が現れることは、戦前期にはなかった。

 戦前期でも、日本人が健闘した例はある。山極勝三郎が1915年に世界で初めて人工的に癌を発生させたのは最も顕著な研究であり、1925年に日本から、翌年にはドイツから、ノーベル賞への推薦があった。しかし、同系統とみなされた研究で1927年にデンマーク人がノーベル賞を単独で受賞し、1930年に山極が死去すると(死者にはノーベル賞は授与されない)、関係者は、これほどの業績も西洋人は評価しないのかと落胆した。東洋人に対しては偏見があり、学術上の評価もそうした偏見に左右されているのではないかともささやかれるようになった。

 物理学賞については、長岡半太郎は長年にわたってノーベル物理学賞の選考委員会から推薦を依頼されていたが、1910年代から1938年に至るまでに彼が推薦したのはすべて外国人であり、この期間には彼が評価するに値すると判断できる研究者は、日本からは現れなかった。1940年になって長岡は初めて日本人の名前を挙げたが、そのときの候補者が湯川秀樹であり、推薦の対象とした研究は湯川の中間子論であった。この時点では湯川の理論は実験的な確証が得られていなかったが、1947年に宇宙線中に中間子が発見され、1949年に湯川は日本の科学者として初めてノーベル賞を受賞することになる。

 1945年に太平洋戦争が終結したばかりであり、この戦争では日本は「科学戦」に敗れたとする指摘もまだ声高に唱えられていた時期であったから、1949年の湯川のノーベル賞受賞は国民全体に大きな自信を与えた。当時すでに日本の原子核・素粒子物理学は世界的水準にあったが、自身の能力を試したいと思う若者がこの領域にさらに流れ込んだ。2016年現在に至っても、日本のノーベル賞受賞者のうち6名(米国籍の南部陽一郎を含めれば7名)はこの領域、あるいは関連領域の研究者である。湯川の受賞を見て、素粒子物理学は無理でも物理学のその他の領域に、あるいは物理学ではなくともそれ以外の科学の領域に進んだ若者も多かったものと思われる。