ほかの領域ではなく物理学で日本からの「挑戦」が成功した事情を理解するには、日本のみならず世界の状況をも考える必要がある。エックス線の発見などに端を発する、19世紀末から続いた物理学上の変革は、1930年代に至って量子力学という新しい基礎理論の誕生という帰結をもたらしていた。物理学研究を行うための枠組みはこれによって大きく変化し、17世紀末のニュートン力学の誕生に次ぐ変革がこの分野にもたらされた。

湯川秀樹=昭和42年7月
 基本的な規則の変更であったから、旧来の科学研究において長い伝統をもつ地域の人々が必ずしも有利なわけではなく、新たに科学研究に参加した地域の人々のほうが、新しい発想や方法に基づく研究で成果を挙げるという事態が生じた。そのような集団として目覚ましい躍進を遂げたのはアメリカの物理学者たちであったが、日本でも小規模ではあったが同様の事態が生じた。1937年に日本を訪れたニールス・ボーアに、湯川が自身の中間子論(発表は1934年)の構想を話したところ、ボーアは「新しい粒子が好きなんだね」と軽くあしらった。しかしボーアが日本を離れて間もなく、その中間子が前年に宇宙線中で発見されていたという報告がアメリカで行われ、湯川の理論は世界の研究者の関心を集めるようになる。

 結果的には1936年に発見された粒子は中間子ではなかったが、上述のように第二次大戦後に湯川の理論は実験的確証を得てノーベル賞を受賞し、素粒子物理学は日本が高い国際競争力を誇る領域となった。さらに、日本人・東洋人であっても、有無を言わせぬ成果を挙げればノーベル賞の選考者はこれを評価するということも明らかになった。長岡の例で見たように、物理学賞や化学賞では、戦前に日本人が推薦された例は極めて少なく、物理学賞で本多光太郎と湯川秀樹、化学賞で秦佐八郎と鈴木梅太郎が候補になっているのみであるが、湯川が受賞して以降、1965年に朝永振一郎が物理学賞を受賞するまでに、朝比奈泰彦、外山修之、水島三一郎、山藤一雄が日本の科学者によって推薦されている。ノーベル賞に対する信頼や期待が、湯川の受賞によって高まったことがわかる。

 明治期以降、日本の科学者が積み重ねてきた努力が、国際的な学問の潮流と相まって、ノーベル賞受賞という分かりやすいかたちでの成果が最初にもたらされたのが素粒子論、物理学においてであった。科学分野において突破口を開いたこの領域は日本の誇る研究分野であり続けている。同時に、湯川秀樹の受賞は、日本人も科学研究において第一級の成果を挙げることが可能であり、また優れた成果であれば日本人のものであっても公正に国際的評価が与えられることを明らかにした。1949年という時期にこのことが明示されたという事実は、日本の社会、特に知的能力に自信をもつ若者たちの間で、科学研究への期待と研究業績に対する国際的評価への信頼が回復し、その後も維持され続けていくうえで大きな意味を持ったと考えられる。