大村氏の人生も挫折続きだった。当初、理科の教諭を希望したが、望みは叶わず、定時制高校に勤務した。そして高校教諭として働きながら、修士課程を修了する。研究者になった後は、個人的なツテを頼り、米国に留学する。そして、メルク・アンド・カンパニーと契約し、研究費を確保する。

 北里大学時代には、財政が悪化した北里研究所を再建すべく、北里大学の教授職を辞して、研究所の理事に専念する。みずから経営学や不動産学を学び、経営を再建する。そして、89年には「北里研究所メディカルセンター(現北里大学メディカルセンター)」を立ち上げる。土地取得から地元医師会への説得までを独力でやったのは有名だ。
母校山梨大に完成した自身の胸像を前に話す大村智さん
母校山梨大に完成した自身の胸像を前に話す大村智さん
 あまり報じられていないが、ノーベル賞獲得に大きく貢献したのはメディア対策だ。ネイチャー誌編集部に所属していた英国人と契約し、積極的に外部に情報を出した。こんなことをする研究者は、私は大村氏以外にしらない。

 大村氏の仕事の仕方は、山中氏とは対照的だ。自ら考え、自らコーディネートし、そして自ら行動する。権力に依存したり、迎合したりするところが一切ない。これは、山梨という土地柄の産物だろう。周囲に、同じような先達がいて、大村氏は自然とそのやり方を身につけたのだろう。

 最後は大隅氏だ。私が、彼から感じるのは、「バランスのよさ」と「逆張り精神」だ。カミオカンデのような巨額の資金を要する研究は兎も角、アイデア勝負の生理学・医学賞で、東大卒業生がノーベル賞を取るのは難しい。官僚体質が濃く、同調圧力が強いためだ。

 高校時代、「環境問題をやりたい」など、さまざまな希望をもって東大に入学した学生も、夏休みを越すと、将来の希望は「官僚になりたい」や「研究者になりたい」と言い出す。環境をやるなら、トヨタに就職して、新しいエンジンを開発するなど、幾らでも方法があるのに、環境省に入省するか、東大の研究室しか選択肢がないように感じるようだ。これでは、研究者として大成しにくい。