現時点でのノーベル賞受賞者は、圧倒的に公立高校出身者が多い。中学受験の経験者は山中伸弥氏(今後の傾向を占うことになるかもしれないが)と私の灘校の先輩、野依良治氏だけである。

 日本の初等中等教育の評価は海外では驚くほど高い。

 イギリスやアメリカで学力低下が問題にされた際も、手本にされたのは日本の初等中等教育である。そして、アジアの多くの国も、戦前から日本の初等教育のようなシステムになっている国(これらの国は日本に批判的だが、教育システムだけはいまだに日本流である)も、日本を手本に教育システムを構築した国が少なくない。

 ところが日本では、教育改革と言えば、必ず初等中等教育の改革のこと、あるいは入試制度の改革のことを指す。

 日本の研究レベルの高さが、日本人の基礎学力の高さに負うということへの反論の一つに、ならばなぜ東大出身者(大隅氏は東大卒だが)のノーベル賞が少ないのかとか、医学生理学賞を、なぜ偏差値が高いはずの医学部卒(山中氏は医学部卒だが)の人が取らないのかというものがある。

 大隅氏はインタビューの中で自由な研究環境に恵まれたことに触れ、また、大隅氏に指導を受けた研究者たちからは、自由に研究をさせてくれたとか、学生に反論したことがないという賛辞の声が上がっている。

 日本の理系学部で、このような伝統が残っているとしたら喜ばしいことだ。

 ただ、少なくとも私の所属する医学の世界では、このような研究の自由な風土はかなり制限されている。要するに学会ボスが強すぎるのだ。

 がんの放置療法で問題になっている近藤誠氏であるが、もともとは海外の論文で、あるステージまでの乳がんは、オッパイを全摘して大胸筋まで切る術式をしなくても、がんだけ切って放射線を当てるだけで、5年生存率が変わらないということを見つけ、国民の啓蒙のために、ある雑誌に提起したことが物議の始まりだった。メンツをつぶされた外科教授たちがこぞって近藤氏を排斥し、その術式を使うと上からにらまれるためか、日本ではほとんど普及しなかった。そして、これらの外科の学会ボスがみんな引退した15年後くらいになって、この術式が日本の標準術式になった。

 教授に逆らうと、就職口でも不利になるし、研究の予算も回してもらえないシステムな上、一度、教授になれば、刑事事件でも起こさない限りクビにならない(ディオバン事件で、論文の改ざんを認めた東大教授がいまだに学会ボスとして君臨しているのだ)システムでは、教授の考えに逆らう研究はできない。彼らが引退するのを待つだけだ。

 最近になり、日本ではコレステロール値が高い人や、やや太めの人のほうが長生きしているというような疫学データが次々出ているが、医学会の趨勢はそれをつぶそうとするばかりで、なぜそうなるのか、それが事実なのかの研究をやろうという機運にならない。

 ノーベル賞というのは、後にその分野の科学の進歩に貢献する研究とか、人類に役立つ研究のほかに、旧来の仮説を覆すような研究に与えられるものだ。しかし、日本では、大隅氏のような人格者が上にいなければ、そのような研究は許されない。

 私は、上の顔色を窺う研究者が、今後もっと増えることを懸念している。