別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より

黄文雄(評論家・文明史研究家)



支那の伝統文化としての虐殺


 歴史や生態によって社会の仕組みも異なり、風習も文化も異なるのは、ごく当たり前のことだ。

 国共内戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争が起きた近隣諸国と違い、戦後日本が70年も平和を守り続けていることは、世界では稀有な例である。もちろん「憲法九条」があるからではなく、誰かの努力でも、英明な指導者のおかげでもない。それは社会の仕組みのおかげだと私は考える。

 江戸や平安の世にも数百年の平和な時代があり、縄文時代の平和はもっと長い。それは自然生態から生まれた社会の仕組みそのもの。日本の神々には、古代ギリシャの「神々の戦い」もない。戦争のない年はなかった支那と、日本は社会も文化も異なる。戦争は生活や風習の延長でもあり、文化の一つでもある。日支の戦争様式(かたち)が違うのは、戦争文化が異なるからだ。

 日本の戦争は古来武士が主役だった。支那は全民戦争が多いので、日本の賤ケ岳の役や関ケ原の戦いのように、百姓が山上で観戦する余裕などない。京師(けいし)(王朝の都)は二重、三重の城壁に囲まれ、村落も学校までも囲まれていた。決して万里の長城だけではないのである。

 戦争のかたちが異なる支那では、「虐殺」は伝統、風習になり、戦国時代から「屠城(とじよう)=市中皆殺し」が戦勝の一大行事だった。長安、洛陽、開封などの京師では、歴代王朝による大虐殺がよく知られる。戦史によく「穴埋め」も出てくる。秦将・白起(はくき)が趙の40万人以上の投降兵を生き埋めにしたことは史上有名である。武将が戦功を誇るために、敵の遺体を集めて「京観(けいかん)」を造ることが盛んに行われた。その遺跡が「万人坑」(万人塚)である。
秦の白起が敗れた趙兵40万人を生き埋めにした長平の戦い(前260年)古戦場跡。少し掘っただけで大量の人骨が出土した。現在は展示館になっている
秦の白起が敗れた趙兵40万人を生き埋めにした長平の戦い(前260年)古戦場跡。少し掘っただけで大量の人骨が出土した。現在は展示館になっている
 村対村、部落対部落の集団武力抗争が「械闘(かいとう)」で、史前から人民共和国の文化大革命期を経て現在も続く。地域の長老だけでなく党書記まで先頭に立ち、武器を持ち出して行う虐殺は民間の風習にもなっている。

 ことに民間の武術集団は、匪賊(ひぞく)退治だけでなく異教徒の皆殺しも行う。19世紀末のイスラム教徒大虐殺(洗回(シイホエイ))や、20世紀初めのキリスト教徒大虐殺の北清事変(義和団の乱)は歴史的大事件となった。文革期はあらゆる宗教が絶滅された。

 1989年の6・4北京天安門虐殺に世界は震撼したが、それは「木を見て森を見ない」支那観である。