別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より

家近亮子(敬愛大学教授)


 1937(昭和12)年12月に起きた南京事件は、日本と中国との間の歴史認識問題の最大の争点となってきた。2012年11月に中国共産党総書記に就任した習近平は南京事件を重視し、2014年に12月13日の「南京大虐殺記念日」を「国家哀悼の日」へと格上げした。

 また、戦後70周年にあたる2015年2月、新華社は「抗日戦争記念施設の保全、利用を進め、愛国主義教育強化の機能を十分に発揮させる」とする習近平の指示を伝えた。そして、中国は同年10月「南京大虐殺関連文書」をユネスコの世界記憶遺産に登録することに成功した。
 

戦時中と戦後の報道の落差

 南京事件をどう見るか。その議論は、戦後間もない頃から日本の中では存在した。一般の日本人が南京事件の存在を知ったのは、管見の限り、昭和20年12月8日付の読売報知の記事が最初であった。「惨たる今次戰爭の眞相 恥ずべし南京の大悪虐暴行沙汰 泥沼に墜(お)つ日支事變(じへん)」は、衝撃的な内容となっている。

 ここでは、日本軍が南京を占領してから数日間で捕虜だけではなく、「二萬人からの男女、子供達が殺害された事が報告されてゐる、四週間に亘つて南京は血の海と化し、切りきざまれた肉片が散乱してゐた」「日本軍はかかる事實(じじつ)が外部に漏れることを畏(おそ)れてあらゆるニュースソースに對(たい)して…検閲を行なつた」とある。

 この記事にあるように、南京事件が起きた昭和12年12月12日からの新聞各紙の報道は、南京における日本軍による市民に対する殺害関連の記事はまったくなく、「首都南京」が陥落したことに対する祝賀と「赫赫(かくかく)たる戦果、日本軍のヒューマニズム、銃後の日本国民の惜しみない声援のニュースであふれかえっていた」からである。したがって、一般の日本人は「南京大虐殺事件」を知るよしもなかった。

 日本における南京事件報道が頻繁に行なわれるようになったのは、昭和21年5月3日にいわゆる「東京裁判(極東国際軍事裁判)」が開廷してからである(23年11月12日、判決宣告)。日本に対する昭和20年9月から27年4月まで6年半続いた連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領統治は、実質的にはアメリカ一国に依った。

 昭和21年9月22日、アメリカは「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」を発表した。この「第三部―政治」の第二項が「戦争犯罪人(War Criminals)」に関する方針であった。ここでは「戦争犯罪人(連合国の俘虜及びその他の国民に対して残虐な行為をおこなったものを含む)は、逮捕され、最高司令官が組織する裁判にかけられ、有罪となった時は処罰される」ことが謳われている。

 東京裁判はドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク国際軍事裁判をひな形として開始された。ニュルンベルク裁判においては「裁判所の管轄権は、条例第六条で、『平和に対する罪』『戦争犯罪』および『人道に対する罪』を犯した者に及ぶ」とされ、「これら三カテゴリーの犯罪」を軸に展開されていった。

 昭和21年1月19日マッカーサーは「極東国際軍事裁判所憲章」を公布した。この中でマッカーサーは東京裁判の目的を「平和に対する罪又は平和に対する罪を含む犯罪に付き訴追せられたる個人又は団体員又は其双方の資格に於ける人々の審査の爲」としている。
朝日新聞昭和12年12月25日付「南京は微笑む 城内点描」
朝日新聞昭和12年12月25日付「南京は微笑む 城内点描」

「極東軍事裁判所条例」によると、「平和に対する罪」は「宣言又は無宣言の侵略戦争」もしくは、国際法等に違反する戦争の「計画・準備・開始・遂行」または、それを実行するための共同謀議への参加、にあると規定されたのである。