いっそのこと賞を辞退したらいい ボブ・ディラン「文学」への抵抗感

『杉原志啓』

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杉原志啓(音楽評論家、学習院女子大学講師)

 
 まず、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞理由に「偉大なアメリカの歌の伝統の中に新たな詩的表現を創造した」とあるその「詩的表現」についてちょっと。

 一年ほど前に再刊なったディラン71年初出の「散文体の現代詩」とでも評するほかはない小説『タランチュラ』がある。この作品には、およそ小説らしさがうかがえない。たとえば、「小説」に期待するような物語性なり語りの結末がほとんどまったく伝わってこないように。ひとつだけ例示してみよう。「陽焼けした国では冬は頭に雪をいただいてベッドの西で眠る/マドンナ。エホバの神殿のメリー。ジェーン・ラッセル。淫売のアンジェリーナ、これらすべての女たち、彼女たちの涙は大洋になれる」
2011年2月、米ロサンゼルスで歌うボブ・ディラン氏(中央)(AP)
 どうだろう。このようにメタファーにつぐメタファーの連続の趣で、プロットらしいプロットはどこにもない。そもそもまた、ここでの「浮かんでいる平底商船のマリア」なんて章題からしてえらくシュールではないか。つまり全編ほとんどこれ式なんだから、これはもう「散文体の現代詩」の塊そのものとしかいいようがない。

 ただ、彼の「現代詩」の謂を私なりに解釈するとこんなことになる。ディランは時間を止めて、みるものきくものをポップ・ソングのようにロマンチックな没入へ誘うような抒情詩人なんかじゃない。彼は、結論や目的のために前進するのではなく、慎重に観察するために目標を据えて歩んでいる。

 いいかえるならディランは、抒情ではなくもっぱら叙事を紡ぐ現代詩なんだろう。つまり叙事詩では、各章ごとのおびただしい事象が、およそ時間軸をハナから捨象して、それぞれが並列かつ独立して語られ、その各部分の均整のうえに全体が整理統合された物語として描かれるように(E・シュタイガー『詩学の根本概念』)。『タランチュラ』はだから、かれのヒット・ソングのごとくどこから読んでもそれぞれ独立して鑑賞できるはずだ。
「らしさ」のないディランの「自由」

 また、レコードを含むディランにおける「詩」の題目は、その内容、その精神が、ことごとくアメリカ的なものを核にしている。この本の訳者、片岡義男の言を借りれば、たしかにディランの目をとおした、あくまでディランにとってのアメリカの「リアル」な日常をとらえたものだってことだ。

1978年2月、日本武道館で熱唱するボブ・ディラン氏
 およそ「詩」というのは、見ての通り誰でも創造できるわけではないし、誰でも享受できるわけでもない。たとえば読み手なり聴き手は、作品の意味を自分の力で解釈し、己の体験なり知識をもとにその意味を作り直さなければならない。だからそうした「詩」をもとにした楽曲を創るボブ・ディランと、みんなが愉しく、しかも一発で了解でき抒情的なポップ・ソングを作る作詞家との違いがある。だからまた、後者の楽曲の作り手だった頃のキャロル・キングの相方であるジェリー・ゴフィンが、ディランの「詩」を耳にした当初かく嘆いているわけだ。すなわち、「ポップスの作詞家と詩人の違いを思い知った。詩人となるほうがずっと難しい。本物の仕事だから。僕もそうなろうとしたけど、できなかった」(『魔法の音楽』)。

 その意味で――つまり、たしかに文学の世界に近い楽曲を書きつづけてきて、かつヘタクソでも(とわたしは思う)自由にうたってきたディランのノーベル文学賞受賞に驚くような理由はない。ただ、わたしにはちょっとした違和感というか、抵抗感もある。

 ご存じのとおり、ディランは非英語圏の日本でさえある種の神様扱いだ。その最大の要因のひとつは、わたしのみるところ、およそ通常の音楽家「らしさ」のないディランの「自由」な生き方にある。で、かつてわたしが長く教えを受けた亡き思想史家の坂本多加雄によると、そもそもそうした「らしさ」というのは、たとえば「音楽家」とか「教師」「会社員」といった社会的役割によって生じるんだとか。ところがいま、あらゆる領域でそうした「役割」にもとづく伝統的な「らしさ」が形骸化している。

 その理由について、たとえばこんないい方がある。「母である前に妻でありたい。妻である前に女でありたい。女である前にひとりの人間でありたい」。むろんここに「父」や「夫」「男」などどんな「役割」を対応させてもいいんだが、いずれにしてもここでのポイントは、最後に「人間でありたい」という願望が登場するところだ。というのも、右のように「役割」を次々と否定した結果到達する「人間」とは、それぞれの行為・態度・振る舞い=「役割」から一切解放されたパーフェクトに「自由」な、いわばリバタリアン的な裸の個人的存在ということになるからである。

 すなわち、改めて考えれば当然のことながら、「人間でありたい」というのは、こうした「自由」へのあこがれにほかならないというわけだ。実際、「人間らしく生きたい」なんて今日あまりに陳腐化しているキャッチだって、物質的な豊かな生活へのあこがれの表明であると同時に、やはりこの意味での「自由」を語ったものではないか。そしてここで、この意味での「自由」を体現し、あらゆる「らしさ」にとらわれない「現代詩」ロックの神様ボブ・ディランが出てくるのである。

 わたしはだから、ディランがいっそ受賞を辞退してくれたら彼の「らしさ」が保たれると考えている(現時点ではその気配濃厚のようだが!)。そのほうが進歩的で反体制的だとか、アナーキーでカッコイイと思うからではない。文学やロック音楽の伝統的な「分」というか、「らしさ」をこれ以上壊してどうするんだというわけで。

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