また、レコードを含むディランにおける「詩」の題目は、その内容、その精神が、ことごとくアメリカ的なものを核にしている。この本の訳者、片岡義男の言を借りれば、たしかにディランの目をとおした、あくまでディランにとってのアメリカの「リアル」な日常をとらえたものだってことだ。

1978年2月、日本武道館で熱唱するボブ・ディラン氏
1978年2月、日本武道館で熱唱するボブ・ディラン氏
 およそ「詩」というのは、見ての通り誰でも創造できるわけではないし、誰でも享受できるわけでもない。たとえば読み手なり聴き手は、作品の意味を自分の力で解釈し、己の体験なり知識をもとにその意味を作り直さなければならない。だからそうした「詩」をもとにした楽曲を創るボブ・ディランと、みんなが愉しく、しかも一発で了解でき抒情的なポップ・ソングを作る作詞家との違いがある。だからまた、後者の楽曲の作り手だった頃のキャロル・キングの相方であるジェリー・ゴフィンが、ディランの「詩」を耳にした当初かく嘆いているわけだ。すなわち、「ポップスの作詞家と詩人の違いを思い知った。詩人となるほうがずっと難しい。本物の仕事だから。僕もそうなろうとしたけど、できなかった」(『魔法の音楽』)。

 その意味で――つまり、たしかに文学の世界に近い楽曲を書きつづけてきて、かつヘタクソでも(とわたしは思う)自由にうたってきたディランのノーベル文学賞受賞に驚くような理由はない。ただ、わたしにはちょっとした違和感というか、抵抗感もある。

 ご存じのとおり、ディランは非英語圏の日本でさえある種の神様扱いだ。その最大の要因のひとつは、わたしのみるところ、およそ通常の音楽家「らしさ」のないディランの「自由」な生き方にある。で、かつてわたしが長く教えを受けた亡き思想史家の坂本多加雄によると、そもそもそうした「らしさ」というのは、たとえば「音楽家」とか「教師」「会社員」といった社会的役割によって生じるんだとか。ところがいま、あらゆる領域でそうした「役割」にもとづく伝統的な「らしさ」が形骸化している。

 その理由について、たとえばこんないい方がある。「母である前に妻でありたい。妻である前に女でありたい。女である前にひとりの人間でありたい」。むろんここに「父」や「夫」「男」などどんな「役割」を対応させてもいいんだが、いずれにしてもここでのポイントは、最後に「人間でありたい」という願望が登場するところだ。というのも、右のように「役割」を次々と否定した結果到達する「人間」とは、それぞれの行為・態度・振る舞い=「役割」から一切解放されたパーフェクトに「自由」な、いわばリバタリアン的な裸の個人的存在ということになるからである。

 すなわち、改めて考えれば当然のことながら、「人間でありたい」というのは、こうした「自由」へのあこがれにほかならないというわけだ。実際、「人間らしく生きたい」なんて今日あまりに陳腐化しているキャッチだって、物質的な豊かな生活へのあこがれの表明であると同時に、やはりこの意味での「自由」を語ったものではないか。そしてここで、この意味での「自由」を体現し、あらゆる「らしさ」にとらわれない「現代詩」ロックの神様ボブ・ディランが出てくるのである。

 わたしはだから、ディランがいっそ受賞を辞退してくれたら彼の「らしさ」が保たれると考えている(現時点ではその気配濃厚のようだが!)。そのほうが進歩的で反体制的だとか、アナーキーでカッコイイと思うからではない。文学やロック音楽の伝統的な「分」というか、「らしさ」をこれ以上壊してどうするんだというわけで。