読んでいないクッツェー氏には村上作品が「大きな衝撃」をもたらしたかどうかを判断する術はないが、彼は村上氏についてというより一般論を語ったにすぎない。

 それでも、短い一般論にさまざまな含み、裏の意味、時に皮肉が込められているのがクッツェー氏の文章である。それを前提に考えれば、私には次のようなニュアンスが込められているように思えた。

 トルストイを例に20世紀初頭の賞の理念を語っているが、裏を返せば現代はそうでもないということ。

 かつての作家たちは人々の間で今よりもはるかに重んじられ、大事にされ、世界中の人がその名を知るほど有名で、彼の作品が時代に大きな影響を与えた。だが、今、そんな作家がどこいるのだろうか、と。

 さらに深読みすれば、メディアの発達のお陰で、人々は小説や詩などいわゆる文学だけでなく、他のジャンルからも大いなる影響を受け得る時代になった、とも語っている。

 そう考えると、ボブ・ディランへの授賞は、この時のクッツェー氏の読み通りの結果と言えなくもない。

 世界の誰もが知るほどの「まあ有名人」で、時代の思想に大きな影響を与えた人物という条件に、ディラン以上に合致する人が、いま候補に挙がっている世界中の作家たちの中に果たしているだろうか。いや、いない。それ以前に、いわゆる出版という形で売られる小説や詩が、上に挙げた条件を満たし得るだろうか。

 さりげない表現の中に、人間の近未来のあり方をはじめ深い洞察が込められているのがクッツェー氏の魅力だが、氏はなんとなくディランへの授賞を、ディランに限らず、文学というジャンル以外で活躍する人への授賞を、読んでいたのではないだろうか。

 もちろん、そんなことを問い掛けても、「いや、私は内部の人間ではないので、授賞の詳細を知り得る機会はありません」などと答えるだろうが、いずれにしても、私は彼の洞察、表現力にまたも感服せざるを得なかった。

 当のディランの魅力については、次回、書かせていただければと思う。
 (一部敬称略)