子ども若者の「ボブ・ディラン」を見つけてあげよう

『田中俊英』 2016年10月14日

読了まで7分

田中俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表)


「ディラン愛」を語ってしまう


 ボブ・ディランは変わったカリスマアーティストで、ディラン好きの人々のそれぞれの「ディラン愛」を聞いているだけでも、聞かされるほうは元気になってくる。たとえばこの、みうらじゅん氏へのインタビュー(【インタビュー】みうらじゅん ディランは「フォークの神様」でなく「ロック」)などもその一例で、ディランをいつもながら熱く語るうち、みうら氏も明るくなってくるし読んでる僕も元気になってくる。
イラストレーターで作家のみうらじゅんさん
 たとえば僕の高校時代にAくんという僕以上の変人の友人がいて、高校を出て大学受験に3浪したあと大学生となり、そこからインド旅行に備えて僕が当時住んでいた京都市左京区の下宿に何ヶ月か居候していたのだが、インド資金を貯めるためにアルバイトしていた京阪電車地下工事(当時まだ京阪は地上を走っていた)仕事がつらくて、バイトから帰っていつもディランを歌っていた。

 みうら氏インタビューにもある『血の轍』から、名曲「ブルーにこんがらがって」を、ギターをかきむしりつつタングル・アッピン・ブルー! とか叫びながら、「ディラン愛」を語る。

 あのジョン・レノンも名曲「ゴッド」のなかで、思わず「ジンマーマン(ディラン本名)を信じない」と最後に叫んだりするのだが、肝心のボブ・ディランはいつも彼を叫んだり語ったりする人の前から通り過ぎていて、宗教3部作等の怪作をどんどん出していく。

 そんなボブ・ディランのふるまいやありようが、その他大勢のカリスマアーティストとは違って、肩透かしというよりは「永遠の存在」のような雰囲気でディランを意識するものたち(みうら氏やAくんやジョン等、世界中何億人の人々。僕も)の記憶に積み上がっている。
「文化」の共有の力


「文化」の共有の力


 ところでこの頃僕は、ひきこもりやニートの若者たちへカウンセリングするなかで、「君は好きな音楽はある?」と久しぶりに聞くようにしている。
 これまでずっと、好きなアニメやゲームは聞いてきたが、音楽に関しては僕が若い頃のようにはいまの若者たちには「文化」として浸透しておらず、彼女ら彼らが愛聴する音楽があったとしてもそれはゲーム音楽だったりiTunesの上位のほうにあるヒットソングだけだったりするからだ。

 「若者に音楽を伝え、共有すること」がいつの頃からか若者支援のなかでは有効性を失った。
 アニメを共有すること(たとえばエヴァンゲリオン)は、互いの価値を確かめ合い、若者の中にある「マイナー性」(エヴァであれば自意識過剰や「世界系」価値)を確認し尊重することができる。

 そして、その「アニメ愛」をてかがかりに、再び「他者とコミュニケーションすることは可能だ」と伝えることができる。シンジ君やアスカの苦しみに共感するのは君だけではなく、世の中にはそんな若者がたくさんいるんだよ、ちなみに目の前にいるこの僕(田中)もオジサンではあるが、恥ずかしながらアスカの叫びはわかる、と。

 とかなんとか、僕は若者に話しかける。つまり、アニメやマンガを代表とする(映画やライトノベルも)「文化」の共有の力は、青少年支援では重要な鍵となる。

 僕が不登校支援を始めた20年ほど前は、アニメだけではなく「音楽」もその文化支援の一角を占めた。当時はバンドブームの最後のほうでもあり、たとえばブルーハーツの「トレイントレイン」やフリッパーズ・ギターの「ナイフエッジカレス」などの青春の名曲で盛り上がった記憶がある。

 弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく(「トレイントレイン」)。
 このフレーズをともに聞くだけで、我々は支援者・クライエントの垣根を超えて、「社会からはみ出た者たち」として連携できたのだ。
宇多田ヒカル


宇多田ヒカル


 が、いつの頃からか、若者支援のなかで「音楽という文化」はそれほどそれほど力がなくなった。

 そうやって諦めていたのだが、最近の宇多田ヒカルの曲を聞いて、また「音楽の力」を見直してもいいのでは、と僕は思うようになった。その経緯は少し前の当欄に書いた(花束は「生者」に贈られている~宇多田ヒカルと母)のでここでは省く。

 その原稿にも書いたように、宇多田の歌を聞くという行為そのものが、亡き人々も含めた「他者」からの励ましになる。その励ましは静かな寄り添いというか語りかけでありそれほど元気ではないが、ポジティブな要素はもっている。

  そんな音楽の力を、僕は久しぶりに感じることができた。それに加えて、今回のボブ・ディランへの注目だ。ディランはいま70代半ばではあるがバリバリの現役で、たくさんの作品をつくりつづけている。

 相変わらず、1人だけいつも先を歩き、「ディラン愛」に燃える人々を語らせる。
 みうら氏をはじめとして、そんな「ディラン愛」をもてた人は幸せだ。ディランに支えられ(ディランを支えたくなり)ディランについて人々と語りたくなる。

 生涯で1人でもいいので、我々は「◯◯愛」できるアーティストを見つけることができると、それぞれの人生は強くなる。それは、アニメ監督や作家ではおそらく物足りず、詩ということばを駆使し、自分の声で歌い語りかける「音楽」、特にポップ・ミュージック(ロックやラップも含んだ広義のポップ)が最も効果がある。

 自分の声で、自分のことばで、世界を、特に価値の形成に揺れる若者たちを励ます。それこそがポップ・ミュージックの最大の力だ。
それぞれの「ボブ・ディラン」


それぞれの「ボブ・ディラン」


 残念ながら今という時代は、そのポップ・ミュージックの力と、若者は若者1人の力だけでは出会いにくいようだ。それはネットの拡大によりアーカイブも含めた超広範囲の作品の中から自分だけのアーティストに出会うことが難しいということが第一の理由だろう。

 だから我々大人は(当欄のメイン読者は30代40代の方々のようです)、大きなお世話だと言われようが、それぞれが若者に聞いてほしいと思う「ボブ・ディラン」を紹介してもいいと僕は思う。その「ボブ・ディラン」は、最近のアーティストの誰かかかもしれないし小沢健二かもしれないしプリンスかもしれないしジャスティン・ビーバーかもしれないし宇多田ヒカルかもしれない。

 若者からうっとおしがられようがなんだろうが、音楽という文化の力を見直したい。その後押しを、ディランは飄々としてくれているように僕は感じている。

(2016年10月14日 Yahoo!ニュース個人「田中俊英 子ども若者論のドーナツトーク」より転載)

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