「文化」の共有の力


 ところでこの頃僕は、ひきこもりやニートの若者たちへカウンセリングするなかで、「君は好きな音楽はある?」と久しぶりに聞くようにしている。
 これまでずっと、好きなアニメやゲームは聞いてきたが、音楽に関しては僕が若い頃のようにはいまの若者たちには「文化」として浸透しておらず、彼女ら彼らが愛聴する音楽があったとしてもそれはゲーム音楽だったりiTunesの上位のほうにあるヒットソングだけだったりするからだ。

 「若者に音楽を伝え、共有すること」がいつの頃からか若者支援のなかでは有効性を失った。
 アニメを共有すること(たとえばエヴァンゲリオン)は、互いの価値を確かめ合い、若者の中にある「マイナー性」(エヴァであれば自意識過剰や「世界系」価値)を確認し尊重することができる。

 そして、その「アニメ愛」をてかがかりに、再び「他者とコミュニケーションすることは可能だ」と伝えることができる。シンジ君やアスカの苦しみに共感するのは君だけではなく、世の中にはそんな若者がたくさんいるんだよ、ちなみに目の前にいるこの僕(田中)もオジサンではあるが、恥ずかしながらアスカの叫びはわかる、と。

 とかなんとか、僕は若者に話しかける。つまり、アニメやマンガを代表とする(映画やライトノベルも)「文化」の共有の力は、青少年支援では重要な鍵となる。

 僕が不登校支援を始めた20年ほど前は、アニメだけではなく「音楽」もその文化支援の一角を占めた。当時はバンドブームの最後のほうでもあり、たとえばブルーハーツの「トレイントレイン」やフリッパーズ・ギターの「ナイフエッジカレス」などの青春の名曲で盛り上がった記憶がある。

 弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく(「トレイントレイン」)。
 このフレーズをともに聞くだけで、我々は支援者・クライエントの垣根を超えて、「社会からはみ出た者たち」として連携できたのだ。