それでも三浦九段を信じたい 「AI>棋士」の不等式が示す人間の弱さ

『茂木健一郎』

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茂木健一郎(脳科学者)

 将棋界に、激震が走っている。しかも、この「活断層」は、これからもますますその亀裂を広げ、棋士たちの内面を脅かしそうだ。

 将棋界最高額の賞金がかかった「竜王戦」で、挑戦者の方が直前に変更になった「事件」は、それくらいの衝撃であった。スマートフォンを通してプログラムの指し手を「カンニング」していたのではないかという疑惑が生まれたのである。

 疑惑の発覚の仕方も、いかにも現代的であった。最近の将棋の対局はネット中継されることも多く、席を立つ回数があまりにも多いことが、ファンによって指摘された。また、指し手が、特定のプログラムの指し手とあまりにも高い確率で一致すること、などの状況証拠などから、「黒」の心象を持つ人が多かったようだ。

「第2回将棋電王戦」最終第5局 将棋ソフト「GPS将棋」と対局する三浦弘行八段(左)。三浦八段は中盤以降にリードを奪われ、そのまま押し切られ敗北した=2013年4月20日、東京都渋谷区の将棋会館
 ご本人は否定されており、私も、一将棋ファンとしてそのお言葉を信じたい。しかし、事態の深刻さの本質は、この案件が「白」なのか、それとも「黒」なのかということを超えたところにあるように思う。

 現在、将棋界では、来年に開催される人間対将棋ソフトの対決(「電王戦」)に向けて、人間側の挑戦者を決める「叡王戦」が行われている。「人間界最強」の羽生善治さんも出場されているので話題になっているが、来年、もし羽生さんと将棋ソフトの対決が実現すれば、歴史的事件になることだろう。

 羽生さんにはぜひ将棋ソフトとの対決で勝って欲しいと願っているが、こんな話もある。

 将棋ソフトや、棋士たちの実力を客観的に評価する「レーティング」という数字があるのだが、この数値から推定すると、現在最強の将棋ソフトと羽生さんが対決した場合、現時点ですでに、羽生さんの勝率は1%以下だというのである。

 もちろん、このような統計的な推定にはさまざまな前提や不確定要素があるので一概には言えないが、いずれにせよ衝撃的な事態である。

 このようなさまざまな状況から、今回の竜王戦の事件が発覚する前から、すでに、将棋の棋士たちの内面には、深刻な危機が訪れていたのだと、私は推定する。
将棋の棋士たちは「炭鉱のカナリア」

 大川慎太郎さんの『不屈の棋士』(講談社現代新書)は、今年出版された本の中では屈指の名著である。将棋の棋士たちが、台頭する将棋ソフトに対して、どのように向き合っているか、丹念なインタビューで浮き彫りにしている。

 この中で衝撃的だったのが、ある棋士の方が、人間相手の対戦には、興味がない、タイトル戦にも興味がない、なぜならば、相手がたまたま弱かったり、ミスをしたりすることで勝つこともあるから、そのような闘いを積み重ねても、ほんとうの意味での将棋の力の養成にはならない、と発言されていたことだった。

米長邦雄永世棋聖(中央)もコンピューター将棋ソフト「ボンクラーズ」と戦い、敗れた=2012 年1月14日、東京・千駄ケ谷の将棋会館
 もうすでに、少なくとも一部の棋士の方の内面には、「人工知能>>人間の棋士」という不等式が、確信として宿っているように思う。今回の竜王戦の事件は、そのような不等式がもたらす人間の弱さの、一つの象徴なのだと私は考えるのである。つまりは、圧倒的な人工知能の実力の前に、脳が「メルトダウン」してしまったのだ。

 私は、将棋の棋士たちは、「炭鉱のカナリア」のような存在だと考える。これから、さまざまな分野で、「人工知能>>人間」という不等式が、成立していく。

 マツコ・デラックスさんそっくりのロボットをつくったことでも有名な、ロボット研究の第一人者、石黒浩さんは、最近、ある場所で、学生たちに向かって、「医学部とか、法学部とか、従来偏差値が高いと考えられていた学部から、価値が無くなっていく」と話された。

 なぜか? 法律知識において、人工知能はもうすぐ人間を凌駕していく。アメリカでは、すでに、大手法律事務所で、人工知能の弁護士(破産法が専門)が雇われているという。医療診断においても、IBMが開発したワトソンのような人工知能が、人間の医師よりも多くの膨大なデータを駆使して、診断をするようになる。人間の医師は、医療のビッグデータの分析において、全くかなわないだろう。

 このような状況を踏まえて、石黒さんは、法律や医療など、体型的な知識が職業を定義づける分野から、人工知能に侵食されていくだろうと考えているようだ。私も、基本的に石黒さんに賛成である。

 人工知能>>人間。この事態を前に、私たちはこれからの生き方を、どのように考えていけばいいのだろうか。

 人工知能が、人間の能力を凌駕するようになっても、必ずしも将棋の棋士、医者、弁護士という仕事がなくなるわけではない。なぜならば、人間とのコミュニケーションという重要な役割においては、人間を超える存在はないからである。
サボるか強靭化するか、運命の分かれ目

 すでに、将棋や、囲碁の世界では、それぞれの「文化」の普及に関心を持つ棋士たちが増えているのだという。対局における強さはもちろん大切だが、人間相手の解説など、人間らしい活動に、活路を見出そうとしているのである。実際、強い将棋ソフト、囲碁ソフトが現れることで、これらのボードゲームを一種の「スポーツ」として楽しむ人口は着実に増えている。

 医療や法律においても、将来、人工知能が分析や判断の「エンジン」として活躍するにしても、その意味合いを解説したり、人間関係に当てはめ、実施するという役割は、やはり、弁護士、医師がやることになるだろう。

ジャンボ駒で対戦する子供たち=吹田市の浜屋敷
 つまり、「人工知能>>人間」という不等式は基本的に避けられないが、そのことによって人間の仕事がゼロになってしまうのではなく、むしろ異なる役割が与えられるようになると予想されるのである。それにしても、今回の竜王戦の事態は、将棋ソフトという人工知能の台頭で、人間の内面が、いかに簡単に「メルトダウン」するかということを示したと言える。

 確かに、人工知能に安易に頼ろうとするならば、私たちは、急速に堕落してしまうだろう。その一方で、棋士たちが、将棋ソフトを使って強くなるケースも出てきている。ソフトの精緻な分析と読みを、いわば自分の脳を来たる「脳ジム」として活用して、棋戦での成績を上げる人もいるのである。(もちろん、その場合、実際の対戦では一切将棋ソフトを参照しないという倫理観が必要なことは言うまでもない)。

 人工知能を「脳ジム」として用いれば、法律知識でも、医療知識でも、自分の脳回路にある情報の量や質を高めることができるし、そのことは、専門職業人としての資質の向上につながるだろう。

 将来、英語を習得しなくても、人工知能が自動翻訳してくれる可能性は高い。しかし、その場合でも、自分の脳の中に英語回路が叩き込まれることの価値は消えないだろう。英語習得は、一種の「スポーツ」になる。その過程で、たとえば、自分のボキャブラリーサイズに合わせて、難易度が適切な教材を用意してくれるなど、人工知能が「脳ジム」としてサポートしてくれるだろう。

 将来必ず訪れる、「人工知能>>人間」の時代。人工知能の台頭は、人間の脳のメルトダウンにもつながるが、一方で、脳の「強靭化」に活かすこともできるのである。

 メルトダウンか、強靭化か。サボったり、ごまかしたりするのか。それとも、人工知能を「脳ジム」として活かして、一種のスポーツとして脳を鍛えるのか。これからの人工知能時代には、それぞれの人の意志の強さと、選択で、脳のメルトダウンと、強靭化という二つの運命が分かれていくような気がする。「竜王戦事件」は、その始まりに過ぎない。



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