「かつて見たことがないほど壮大な宮殿」。ポルトガルから来日したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に招かれ、安土城を観覧したときの驚きを自著「日本史」の中でこう記している。はるか海のかなたのヨーロッパ人宣教師をも驚愕させた安土城の天主。そこには、天下統一へと突き進む信長の大いなる野望としたたかな政治的意図が垣間見える。

琵琶湖を中心とする「巨大な要塞」か

 安土は琵琶湖東岸にあり、京都から約50キロに位置する。巨大な天主が築かれた安土山山頂の標高は199メートル。現在の安土山一帯は田園に囲まれているが、当時は琵琶湖の内海に囲まれており、大量の物資や兵を輸送するため、周辺には港がいくつも整備された。京都までは水路を利用すれば、半日程度で行軍できたとされる。

安土城跡の発掘調査で見つかった焼け跡=平成11年3月撮影

 フロイスの日本史や太田牛一の「信長公記」などの記録によれば、天主は地下一階地上六階の七重からなり、その高さは40メートルを超える壮大なつくりだった。土台は石垣を幾重にも積み重ねてつくり、各層の外壁は朱色や青色、白色の塗装、最上階は金箔の瓦や柱で飾られ、金色の輝きを放っていたという。

 城の内部にも狩野永徳が描いた墨絵や、金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、その意匠や機能、芸術性は当時の最高水準だったことは言うまでもなく、中世的な価値観やシステムを破壊してきた信長の独創性をまさに具現化した建造物だったのである。

 むろん、技術の粋を集めた絢爛豪華な建築の背景には、統治者としての威厳を世に示し、信長が目指す「天下布武」の象徴だったことは想像に難くない。だからこそ、信長は自ら天下人としての権威を誇示すべく、空前絶後のド派手な築城を実行したのである。

 信長が総普請奉行の丹羽長秀に命じて、この地に築城を始めたのは1576年。本拠地の尾張や隣国美濃を平定し、室町幕府15代将軍、足利義昭を京から追放して幕府を滅ぼし、浅井長政・朝倉義景ら長年の抵抗勢力も各個撃破。前年には三河・長篠で盟友の徳川家康とともに、目下最大の強敵だった武田氏を破り、東海や畿内をほぼ掌中に収めた時期でもある。

 信長がこの地に築城した目的は諸説ある。安土へ移転する前の居城だった岐阜よりも京に近く、朝廷対策や今後の西進作戦において地理的に便利だったことや、安土が北国街道から京への要衝に位置し戦略的防衛拠点として越後の戦国大名、上杉謙信に備える必要があったーなど、信長を取り巻く当時の情勢を考えれば、政治・軍事両面での築城目的があったというのが一般的な説である。

 ほかにも、安土の北に羽柴秀吉の長浜城、南西に明智光秀の坂本城を配して、琵琶湖を中心とした「巨大な要塞」を構築し戦略上の拠点にしていたとする説や、水運の利便性を生かして北陸から京、大坂までの流通を一手に掌握し、経済・文化的な拠点としての築城が目的だったなどとする説もあり、信長の真意がどこにあったのか、いまだはっきりしていない。

 とはいえ、現在に伝えられる信長の言動や、居城変遷などの経緯をたどれば、推測の域を出ることはないものの、安土築城の仮説ぐらいは立てることができる。

 そこで今回、筆者が注目したのは、1571(元亀2)年9月、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした前代未聞の「事件」である。

信長の大いなる野望とは

 信長は、室町幕府15代将軍、足利義昭の呼び掛けに応じて信長包囲網を形成する浅井・朝倉連合軍を支援した延暦寺の行動に怒り、攻略を決意。9月12日、比叡山にある堂舎をすべて焼き払い、僧侶や老若男女数千人を皆殺しにしたとされる。

 比叡山の歴史は古く、古事記では日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神(おおやまくいのかみ)がこの山に鎮座し、鳴鏑(めいてき)を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、京都の鬼門にあたる北東に位置する比叡山は、王城の鬼門を抑える「王城鎮護」の山として長く信仰の対象だった。

 それだけに、信長による比叡山への攻撃は「天魔の所為」と恐れられ、京の空をも赤く染めた炎は人々に大きな衝撃を与えた。そして、この鬼門を抑える王城鎮護の信仰にこそ、安土築城の「真実」が隠されているのではないかと筆者は考える。

 比叡山よりも少し京都から離れてはいるが、安土の地も京都の北東に位置し、鬼門にあたる。つまり、信長は自ら手を下して滅ぼした比叡山の代わりに、「王城=京都」を守るのは自分であると考えていたのではないか。それが意味するのは、信長本人が神仏を超越した存在になることであり、自ら神格化することの象徴として、安土に建築史上類を見ないスケールの天主を築いたと考えることはできないだろうか。

 それともう一つ、安土城天主の直下にある本丸御殿は、天皇が常在する清涼殿と酷似した建築物だったことが発掘調査で分かっており、この本丸御殿は天皇を迎え入れるためにつくられた建物だった可能性が高い。

 要するに、安土城は天皇の上に信長が立つという自身の政権構想を反映した構造になっていたのである。先に述べた比叡山攻略と合わせて考えると、信長は神仏や朝廷を超えた存在の象徴として安土に築城し、「神格化」への布石を打つ狙いがあったのではないかと思えてしまう。

 完成からわずか3年後に起きた本能寺の変で横死した信長にとって、安土城が自身最後の居城となったわけだが、最近の研究などでは、後に秀吉の居城となる大坂に拠点を移す計画もあったとされる。信長はその生涯に何度も本拠地を移しているが、天下布武を進める過程で最も適した場所へ次々と拠点を移していたという。

 安土城が神仏や朝廷を超える存在としての象徴、つまり日本を統一する天下人の権威の象徴とするならば、信長が大坂築城を計画した意図は何だったのか。それは信長が国内統一後に夢見た「唐入り」だったのではないか。

 そう考えると、信長の安土築城が本能寺の変とも何らかのかかわりがあったように思えてならない。日本史最大のミステリーを解く鍵が、実は安土築城の裏に隠されているのだとしたら? そんな想像力をかき立てるロマンがあるからこそ、歴史はおもしろいのである。(iRONNA編集長 白岩賢太)