手嶋龍一(外交ジャーナリスト、作家)

 8年前の開票日、アメリカは久々に前途に光明を見出して、バラク・フセイン・オバマ大統領の誕生を心から喜んでいるように見えた。ニューヨークの摩天楼を走るタクシーが一斉に「WE CAN CHANGE」とクランクションを鳴らし、感動を分かち合っていた光景が蘇る。「アメリカの唄」がこの国の隅々に響き渡ったと誰もが実感したのだった。だが、この国を包んだ高揚感は瞬く間に消えていった。マイノリティ出身の若き大統領ならアメリカの現状を変えてくれる―それは幻想に過ぎなかったことが分かると、人々を深い絶望に突き落とした。今回の大統領選挙は、スキャンダルを暴きたてる共和、民主両陣営の応酬は派手だったが、驚くほど躍動感に乏しい戦いだった。それは8年前の夢から覚めた反動そのものだったのである。
米大統領選の開票速報を報じるテレビが映し出された外国為替のディーリングルーム=9日、東京(ロイター)
米大統領選の開票速報を報じるテレビが映し出された外国為替のディーリングルーム=9日、東京(ロイター)
 ヒラリー・ローダム・クリントンという政治家は、じつに選挙戦に弱い候補だ―。過去8回のアメリカ大統領選挙を現地で取材し、2000年と2004年の大統領選挙で「当選確実」の判定に携わった経験に照らしてそう思う。FBI(連邦捜査局)がクリントン国務長官時代のメール捜査を終えていないと選挙戦の終盤に公表した。これによって共和党のトランプ候補の猛追を許してしまったとアメリカのメディアは解説している。だが、そうなのではない。選挙戦ではあらゆる情報が乱れ飛ぶ。これしきの疑惑で、すでに勝利を固めたと見られていたブルー・ステート(民主党獲得州)が次々に激戦州に逆戻りしていくことなどありえない。そもそもクリントン陣営の支持基盤があまりに脆弱だったのである。

 最終盤では、オハイオ、フロリダ、ノースカロライナ、ペンシルベニアが主戦場となり、これまでクリントン陣営が獲ると見られてきたニューイングランドのニューハンプシャー州やメーン州までブルーから灰色の激戦州に逆戻りしてしまった。そしていざ票が開いてみるとそれらの大半がトランプ陣営の手に落ちたのだった。メール問題の再燃がきっかけで支持基盤がはらはらと崩れていく。それほどにヒラリー・クリントン氏は選挙の大一番に弱い政治家だった。

 それゆえ、クリントン前国務長官が大統領選挙に名乗りを挙げて以降、ひたすら苦しい戦いを強いられてきた。民主党内の候補者選びでは、バーニー・サンダース上院議員に終始追い詰められ、続く本選挙でも共和党のドナルド・トランプ候補に最終盤で抜き去られてしまった。一年余りに及んだ大統領選挙戦を通じて、21世紀のアメリカ社会の底流にどれほど不満のマグマが渦巻いているか。敗れたクリントン氏は、草の根に鬱積する不満の凄まじい勢いを肌で感じ取ったことだろう。

 いまのワシントンの政治家たちは自分たちの願いを掬い取ってくれない。草の根の有権者は既成の政治家の象徴としてクリントン候補に厳しい判定を下したのだった。十分な学資がなく、州立大学にも進めない若者たちは、民主党内の候補者選びで党内最左派のサンダース上院議員のもとに結集した。クリントン候補は若者向けの施策をあれこれアピールしてみたが、最後まで手ごたえは得られなかった。

 クリントンは「ガラスの天井」を打ち破ろうと、初めての女性大統領の誕生を訴えた。筆者はアメリカでも女性が社会に進出するためになお多くの課題を抱えていることを承知している。そのうえで言うのだが、女性大統領の出現を至高の訴えとして選挙戦を戦う時代の認識がすでに過去のものだったと思う。長くアメリカ政界の中枢を歩んできた本命候補ヒラリー・クリントンという政治家が知らず知らず「賞味期限切れ」を迎えていたのかもしれない。