(1)卑弥呼って誰?


 古代の日本について考えるとき、まず浮かぶのは邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)だろう。もっともその名は中国の歴史書「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)にあるもので、卑弥呼とは女の子というほどの意味の「姫子(ひめこ)」に由来するようだ。
「漢委奴国王」とくっきり刻まれた金印が福岡県志賀島から発見された。金印は木簡などをヒモでとじて粘土で封をした封印に使われていた=2000年4月、福岡博物館
「漢委奴国王」とくっきり刻まれた金印が福岡県志賀島から発見された。金印は木簡などをヒモでとじて粘土で封をした封印に使われていた=2000年4月、福岡博物館
 彼女が歴史の舞台に登場したいきさつは、倭人伝に詳しい。元は男の王が治めていたが国中が服さず、争いが続いた。そこで三十余の国々がひとりの女性を共にいただいた、というのである。

 というのも、卑弥呼は不思議な霊力を持っていた。倭人伝には「鬼道(きどう)に事(つか)えて、よく衆を惑わす」とある。神がかりする巫女(ふじょ)(シャーマン)で、そのパワーが人々の支持を得たのだろう。

 卑弥呼は独身で、弟が補佐して国を治めた。千人の侍女に囲まれ、姿を見た人は少なかったという。

 こうして成立した「卑弥呼の日本」(女王国連合)は、近畿から九州までを版図としていた。共通の言葉や、流通のネットワーク圏があったのだろう。日本における、初期国家の成立といってもいい。

 倭人伝によれば、卑弥呼は248年前後に死亡した。敵対する狗奴国(くなこく)との戦争のまっただ中だった。墓は径百余歩(ほ)(直径約150メートル)もの大きさだったという。

 卑弥呼が亡くなったころ、奈良盆地の東南部にそれまでと隔絶する規模を誇る墓、前方後円墳が次々と造られ始めた。奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)はその第1号で、卑弥呼の墓にあてる説が出されている。

 ところが不思議なことに、わが国最初の正史の「日本書紀」には、彼女に関した記述がない。わずかに神功(じんぐう)皇后(仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后)の記事に「注記」として、「倭の女王が中国の魏に使節を派遣した」と記されているだけだ。

 卑弥呼が亡くなって約500年後、天皇家には彼女についての記憶がなかった。もちろん書紀の編者は倭人伝を読んでいたから、卑弥呼とは神功皇后のことだと想像したのだ。

 宮内庁は、箸墓古墳の主を崇神(すじん)天皇の大叔母(孝霊天皇皇女)にあたる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)としている。書紀によれば、百襲姫も神がかりをするシャーマンだった。卑弥呼の出自や墓に関する謎が解明される日は、来るのだろうか。