桑原久男(天理大学教授)

 奈良県天理市には、全国的に著名な金象嵌(きんぞうがん)銘文資料が二つある。その一つは、1962年、市内北部の櫟本(いちのもと)に所在する東大寺山古墳で発見された鉄刀で、後漢の「中平」(紀元後184~190年)の年号を高度な技術を用いた金象嵌で刻んでいる。福岡の志賀島で江戸時代に見つかった国宝の「漢委奴国王」金印は、年号を刻んでいないから、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、日本最古の紀年銘資料ということになる。
金象眼大刀が発見された東大寺山古墳
金象眼大刀が発見された東大寺山古墳
 残念ながら鉄刀の実物は天理市にはなく、重要文化財として東京国立博物館に収蔵されている。近年、念入りな修復作業が施され、報告書も出版されたから、いずれ、埼玉稲荷古墳の鉄剣など、他の紀年銘資料と同じように、国宝に指定されて然るべきだろう。

 『漢書』地理志は、「楽浪海中に倭人あり。百余国に別れ、歳時をもって来たりて献見す」と、紀元前108年に設置された楽浪郡と倭人社会の交渉を記録する。また、『後漢書』東夷伝は、紀元後57年、朝貢を行った倭の奴国に対して、光武帝が印綬を賜与したことを伝えている。志賀島出土の「漢委奴国王」金印は、年号がないが、この奴国王朝貢の際に授けられたと見るのが定説だ。

 これに対して、東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、2世紀末の倭と中国の政治的交渉を通してもたらされたと考えられる。ただし、こちらの場合、中国の混乱期だったためか、逆に中国の正史には倭の入朝の記録がなく、倭に「中平」銘鉄刀を贈ったのは、遼東太守として、当時、中国と東夷諸国の交渉窓口だった楽浪郡を実質的に支配した公孫氏の政権だった可能性が指摘されている。

 また、当時の日本列島は、魏志倭人伝などの文献によれば、倭国乱が収束した直後の時期で、「中平」銘鉄刀を贈られたのは、邪馬台国を都として、倭国の女王に共立されて間もない卑弥呼だった可能性がある。

 それでは、2世紀末の中国で製作された鉄刀は、どのようなルートを経て、奈良盆地に運ばれてきたのだろうか。魏志倭人伝が記す倭国への交通ルートは、帯方郡から海岸に沿って水行し、狗邪韓国から海を渡り、対馬国、一大国を経て、末盧国から陸行し、伊都国に至るというものだ。伊都国から東南の奴国に至るには百里で、邪馬台国の女王の都に至るには、解釈が難しいが、南に水行十日、陸行一月だとされる。