高島忠平(旭学園理事長)

 「壕(ほり)がずーっと続くんです。1キロ以上続きそうなんです」

 吉野ヶ里の発掘現場から、教育委員会にいた私の元に電話がかかってきた。現場の責任者である七田(しちだ)忠明さんの声は、興奮していた。昭和63年10月。私はすぐに、発掘中の吉野ヶ里の現場に駈け付けた。
日本最大の環壕集落跡が見つかった吉野ヶ里遺跡
日本最大の環壕集落跡が見つかった吉野ヶ里遺跡
 「この壕は、はるかむこうの壕に連続しています、1キロ以上になるかもしれません」。もう落ち着いたのだろうか。七田さんは電話とは打って変わって、いつも通り淡々とした口調で説明した。今度は私が興奮してきた。長大な壕跡は、吉野ヶ里丘陵の尾根を越えて、めぐっていそうである。「日本最大の環壕集落になるかもしれない」

 七田さんもうなずく。「近畿の弥生の大集落跡と、これでやっと対等になれる」。抑えられてきた気持ちをひっくり返すような確信を持った。

 奈良国立文化財研究所にいた10年間、近畿各地の弥生時代の遺跡や発掘現場を見て、調査に参加した。奈良県唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡、大阪府の池上・曽根遺跡や四つ池遺跡などなど。どの集落跡も巨大だった。唐古・鍵遺跡は30ヘクタール、池上・曽根遺跡は14ヘクタールある。

 これに対し、九州・福岡の南方遺跡は2ヘクタールほどしかない。遺跡や遺物を即物的に比較し、文化や社会のあり方を議論する考古学の世界、特に集落論では、九州は不利だった。

 遺跡の大きさの違いは、邪馬台国近畿説の根拠とさえなっていた。邪馬台国九州説の私は、この集落論で忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた。

 昭和49年、私は佐賀県教育委員会に赴任し、吉野ヶ里の丘陵に立った。

 「広大なこの遺跡を本格調査しよう」。こう企図した。

 とはいえ、実際に動き始めたのは56年だった。吉野ヶ里丘陵に工場団地が計画され、そのための事前調査としてであった。

 調査対象は約30ヘクタールの範囲、それも3年の期限付きだった。考古学の常識として、1年で数ヘクタールを調査するのが限界だった。

 期限内にどうやるか。私は計画の中で、まず発掘対象の全域で、遺構を覆っている表土を重機で一気に剥ぐことを提案した。遺構の概況を判断し、発掘に見通しをつけるためであった。

 昭和61年、とにもかくにも、調査は始まった。発掘調査の現場指揮は、七田忠明さんに任せた。彼は誰よりも吉野ヶ里を熟知していた。

 吉野ヶ里の丘陵は先人の手により、部分的には発掘されていた。私自身、卒業論文の調査で、丘陵のあちこちから出る土器など遺物に圧倒されたこともある。

 先人の考古学者の代表が、忠明さんの父で、旧制神埼中学の教師であった七田忠志さんだ。忠志さんは昭和10年代にすでに「邪馬台国論争に重要な位置付け」と報告している。忠明さんは子供のころから、父と一緒に吉野ヶ里を歩いていた。

 発掘調査計画と調査スタッフによって、一挙に遺跡全体の状況が明らかとなった。最終的に、丘陵のあちこちにあった遺跡は、すべて一連一体のものだったことがわかった。南北約1キロメートル、東西約600メートル。約40ヘクタールを超える弥生時代最大の環壕集落であることが確認されたのだ。

 環壕集落と密接に関連する同時代の遺構は、南北約6キロメートルの丘陵全体に存在しており、吉野ヶ里遺跡は約300ヘクタールにわたる巨大な弥生時代集落跡であることも窺がえた。

たかしま・ちゅうへい 昭和14年12月福岡県生まれ。熊本大学卒業後の39年、奈良国立文化財研究所(当時)入り。平城宮跡(奈良市)、田能遺跡(兵庫県)などの発掘に携わり、49年から佐賀県教委文化課文化財調査係長。吉野ヶ里遺跡発掘を指揮し、「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。平成16年佐賀女子短大学長、18年から同短大などを運営する学校法人「旭学園」理事長。