週刊誌の売れ筋ランキングを見ると、やはり上位にはいまも「嫌いな隣国」関連で埋め尽くされています。中国、韓国叩きの記事は、やはり読まれ、売れるようです。問題を提起し社会への警鐘を鳴らすべき存在である各種メディアは、各々の媒体としての価値観やあるべき姿を模索しながら記事作りを進めているとは言え、やはりビジネスでもあり、読まれてナンボ、大きな反響を生んで始めて一人前という観点が出るのも仕方のないことだと思います。

 本来ならば、ある種の「売れさえすれば何でも書く」の足かせとして、出鱈目なことを書かれた本人が名誉毀損や誹謗中傷の訴訟を起こすことで一定の歯止めがかかるのがマスコミに対するチェック機能のひとつでもあります。ところが、読者の趣味、興味の延長線の先には隣の国、民族への反感や批判、あるいは揶揄、異質さ、排除したい気持ちといったものが根底にある場合、はっきりいって事実であろうとなかろうと面白おかしく書いても訴えられることはほとんどありません。いわば、叩いてもノーリスクに近い罵倒の対象としての韓国というのは、メディアにとってはおいしい存在です。
 韓国のここがおかしい、韓国経済が破綻寸前だ、船が沈んだすったもんだで韓国社会はこんな無能を晒しているというネタをいくら週刊誌やウェブでばら撒いても、恐らくは訴えられるなどの反撃はされないということで、売れることも相俟ってこういう嫌韓記事が花盛りになっていると言えます。
 
 また、関係が悪化の一途を辿る対中国も同様です。中国人の横暴や、中国社会自体が孕む矛盾に、最近ではマクロ面での中国経済の変調、成長鈍化が話題になってきました。そうなると、いままで経済成長を求心力として謳歌してきた中国経済の影響力にも翳りが見えて、外交面での中国の傲慢さや、中国国内での異民族暴動や大規模デモなども日本人の娯楽として話題が提供されるようになってもさほど不自然はありません。

 そうすると「ああ、韓国も酷いことになっているのだな。日本はそうにならないように改めよう」と日本にとって建設的に考える人よりも、「そんな酷い韓国や中国のお陰で日本は迷惑を蒙っている。いままで我慢してきたが、もう許すことはできない」という排他的な態度を取る日本人も、当然のことながら一定数生まれることになります。場合によっては、ヘイトスピーチや在日韓国人の人たちに対する排斥デモに参加する人も出てくるでしょう。読まれれば読まれるほど、そのような予備軍が増えるのは当然とも言えます。

 他国に目を転じると、日本に限らず多くの国で移民に対する反対運動が起きていることが分かります。ドイツでもデンマークでもスウェーデンでも、抜き差しのならない規模で、移民に対して地元民が抗議運動をするケースはたくさん報じられています。中には、文字通り民族主義的な政党が支持を集め、極右政党が大躍進して政治的に大きな影響を及ぼす事態になり、反EU的な活動にまで結びついているフランス国民戦線やイギリス独立党といった政党が、無視できないレベルにまで成長してきました。

 翻って、日本の場合はヘイトスピーチ問題は単体の社会問題として捉えられ、どちらかというと表現の自由や人権問題の枠組みで解釈されることが多くあります。もちろん、差別的な言動は許されるものではなく、社会の責任としてきちんと制限をかけるのは大事なことです。

 一方で、以前はネットの中だけでわいわいやってきたネトウヨの一般化が始まり、これらのデモに参加する層の広がりを細かく見ていくと、日本社会や政治に対する不満や、思うような職に就くことのできない貧困問題がリンクしていることは確実です。娯楽としての排斥主義的な嫌韓や反中が、実際には包括的な社会問題に結びついて閉塞感とセットになってきていることは言うまでもありません。

 政治的な枠組みを用い、差別や人権という概念を持って社会問題を解き緩和を試みても、肝心のメディアやネットでこれだけの燃料がくべられていてはなかなか収集はつかないかもしれません。それら日本と中韓の対立を煽る記事が読まれ、買われる理由というのも、隣国がいかに酷いかという記事に一定の溜飲を下げたいという読み手の側からの需要があるからです。

 例えばここで、あってはならないことですが日本と改めて中国韓国が国益面で対立し、抜き差しならない事件や事案が発生すると、国民感情的に中韓に対する合理的な譲歩ができなくなってしまいます。それこそ日露戦争で現実的な終戦処理をした小村寿太郎のような歴史が繰り返されるのではないかと心配になるわけですね。

 国が貧乏になると、国民は自然と内向きになり、より弱い者を叩くという現象を起こしがちなので、無理なくガス抜きをしつつ対応して行く以外方法はないのではないでしょうか。

 ヘイトスピーチというのはあくまで「症状」であり、原因というのは貧困や国民としてのプライドなど、社会と本人の関わりの中に見出すことができます。いくらヘイトスピーチそのものを「差別的だ」と押さえ込んだところで、本来の意味の解決には程遠い結果しか出ないのではないか、と強く危惧します。