川村二郎(元『週刊朝日』編集長)

役員10人のうち8人が編集部門


 私が『朝日』の記者になった1964年(昭和39年)、朝日新聞社は「お家騒動」の余震が続いていた。

 お家騒動というのは、『朝日新聞』を創業した大株主である村山家の当主、村山長挙社長(当時)が人事や紙面に口を出すので、常務取締役(当時)の永井大三さんが体を張って抵抗し、社内が社主家派と永井派に分かれて争った騒動である。論説主幹、東京本社編集局長を両派から出し、どちらのポストも二人という異様、異常な事態が続いていた。

 そんなことになっているとは、私は『週刊新潮』を読むまで知らなかったのだが。

 永井さんは現在の一橋大学を出て朝日新聞社に入り、販売一筋を歩み、「販売の神様」といわれていた。『朝日』を実質的に日本一の新聞にした立て役者である。

 左目にいつも分厚いガーゼを当てていたことから「独眼竜」とも呼ばれていた。当時は販売と広告が一緒で、永井さんは両部門を統括する「業務局長」のポストに就いていた。

 新聞社では、お金を稼ぐことをしない編集部門が“虚業”とすれば、お金を稼ぐ販売と広告は“実業”である。

 虚業と実業は補完し合う関係にある。それなのに朝日新聞社はある時期、役員10人のうち8人が編集部門出身で、販売部門と広告部門からはそれぞれ一人ずつということがあった。雲の上のことには興味がなかったので、人数は間違っているかもしれない。

 しかし虚業が圧倒的に優勢で、クルマに例えれば虚業のタイヤはダンプカー、実業のタイヤは軽四輪のようだったことは間違いない。これでは同じ所をグルグル回るだけで、前には進めない。

 私は『朝日新聞』が起こした一連の“事件”の背景には、虚業と実業のアンバランスがあったという気がしてならない。

 しかし編集がどんなに巨大化しても、販売と広告には紙面に注文する権利があり、そうする義務がある。もちろん私は、販売や広告が紙面に口を挟むことを嫌うというより、許さなかった編集局幹部がいたことを知っている。

 その幹部が「編集権は編集局にある」というので、

 「編集権は社外に対してあるもので、社内にそんなものがあってはいけないでしょう。ビール会社や自動車メーカーは、営業や宣伝の社員に『うちの商品に注文はつけるな。商品開発の人間に文句をいうな』とは、いわないはずです。新聞社で日々読者と接しているのは販売と広告の人間ですよ」

 といったこともある。

 また、編集局幹部とは定期的な会合があると聞いたので、販売と広告の幹部に、

 「編集局の幹部に『紙面を面白くしてください』といっても、彼らは『うちの紙面はいい紙面だ』というに決まっている。論説委員や編集委員の書いた、何がいいたいのかわからないコラムを2、3本切り抜いて、『このコラムのどこが面白いのか、説明してくれ』と、具体的に聞かないとダメだよ」

 といったこともある。

 しかし誰もそういうことはしなかった。

 朝日新聞社では編集、販売、広告の新入社員を全員集め、合宿をして研修をする。夜は酒が入るのだが、販売局の講師役の先輩は新人の販売局員に「編集局の人に紙面について何かいうなよ」というそうである。社内の言論の自由を封じるわけである。

 この話を聞いたのは5、6年前だが、こういう気風が簡単に変わるとは思えない。こんな指導をしていれば、若い記者が唯我独尊になるのは目に見えている。こういうことを続けていればやがて社内でも「編集権」を振り回す幹部になり、販売や広告の幹部が「ものいわぬ小羊」になるのは、不思議なことではない。

 そう考えると、今回の事件は編集、販売、広告が寄ってたかって引き起こしたものだということができる。実業の部門がいうべきことをいわなかったために、編集が裸の王様になったという面があるからである。

「いまに見てろよ」


 話を50年前に戻す。

 新人記者の私は、事件や事故にあまり興味がもてなかった。一方、警察や消防は「広報」という考え方がなく、何でも隠そうとした。

 地元紙に、火事があると必ず現場に一番乗りをする記者がいた。彼は大分消防署の真ん前に住んでいたので、消防車が出動するとすぐわかる。地の利を得ていた。名前に「金」の字があったためと思われるが、彼は「火の見下の金ちゃん」と呼ばれていた。

 私は殺人事件や火事より、古老が「カ」と「クヮ」と発音し分けることや、女性の名前、たとえば「ノリコ」なら真ん中の「リ」にアクセントを置くことのほうに興味があった。事件記者としては失格である。

 初めての独り暮らしで、朝起こしてくれる母親がいない。毎朝、寝坊する。火事は抜かれて(他紙の記者に先んじて記事にされて)ばかりいる。デスク役(当時は「取材主任」といった)に、

 「おまえは本当に大学を出たのか。バカッ。荷物をまとめて帰れ」

 と毎晩のようにいわれた。

 それでも帰らなかったのは、九州に赴任するために横浜駅を出るとき、小学校のときからの友だち7、8人が見送りに来てくれたからだ。彼らの手前、尻尾を巻いて帰るわけにはいかない。そんなことをすれば、誰も一生付き合ってくれないだろう。そう思うと、何といわれても荷物をまとめる気にはならなかった。

 「パワー・ハラスメント」だの「自分探し」だの、「居場所がない」などという言い方はなかった。

 子供のころは親に「獅子はかわいいわが子を谷底に落とし、這い上がってきた子だけ育てる」といわれ、それを真に受けていた。初めて書いた原稿をデスク役に丸めてゴミ箱に捨てられても、「いまに見てろよ」と思っただけだった。

 あらためて思い返すと、私の育った湘南海岸では、運転免許を取ると、

 「いいか、人間に格があるように、車にも格がある。フォルクス・ワーゲンでメルセデス・ベンツを抜くようなことはするなよ」

 という慶應大学の先輩がいた。

 「どうしてですか?」と聞こうものなら、張り倒される。理不尽で窮屈な気もする。しかし、こうした不文律があったころのほうが、世の中は落ち着いていた。そんな気がするのは、私が年を取ったせいだろうか。


『朝日』への恨みは口にしない


 記者の仕事が面白いと思うようになったのは記者になって4年目、福岡総局で馬場博治デスクと会ってからである。馬場デスクは東京社会部時代から「天声人語」で名を馳せることになる深代惇郎さんと親しく、とにかく文章に厳しかった。原稿を出すと、

 「あかん。おもろない」

 といって、突き返される。

 どこが「おもろないのか」説明はしない。“自分で考えろ”というわけである。

 原稿が書けなくて困っていると、「うちに来い」といわれ、奥さま手づくりの食事をいただく。食事が終わると、「書いたら起こせ」といって寝室に入る。原稿を見るときの目は、欠食児童のようにガツガツしていた。

 馬場さんは大変な読書家で、

 「谷崎(潤一郎)の『盲目物語』は読んだか? これは、聞き書きのお手本やで」

 といわれて読むと、まさにお手本だった。

 フランスの文部大臣だった政治家が文化大革命の中国をルポした『中国が目覚めるとき、世界は震撼する』(アラン・ペールフィット著、白水社)という上下2巻本も、馬場さんに薦められて読んだ。

 当時、『朝日』の紙面は連日、文革礼賛の記事が溢れていた。社会部の先輩のなかには「人間は理性で欲望を制御できるか、中国は実験をしているんだよ」という記者もいた。私がこういう考えに染まらずに済んだのは、馬場デスクに薦められた上下2巻本のおかげだ。読んで、「こんな国では生きていけない」と思ったからである。

 一言付け加えておくと、『朝日』の文革礼賛一色のなかにあっても、異を唱える先輩はいた。伴野 朗さんである。異を唱えたために配所の月を眺めることになり、定年を待つことなく退社した。ミステリー作家に転じ、『50万年の死角』で江戸川乱歩賞を取るまでになったところで、亡くなった。私は編集委員時代、先輩をご自宅に訪ねたことがある。『朝日新聞』への恨みはあったはずなのに、一言もそれらしいことを口にしなかった。


「憧れた女性がアバズレだった」気分


 1970年春、東京本社に異動になると、学生のころから「記者の神様」と思っていた疋田桂一郎さんや深代惇郎さんや森本哲郎さんがいた。憧れの先輩が、私の署名がないのに「これ、君が書いたんだろ。面白かったよ」といってくれる。3、4日は幸せだった。

 社会部から『週刊朝日』に移ると、釣り支度をした作家、開高健さんが「ハーイ、セニョール」と、大声で編集長を訪ねてくる。電話を取ると作家、松本清張さんの「松本じゃがね」という割れ鐘のような声である。

 新聞とは別の世界だった。社会部だけにいたら作家、司馬遼太郎さんとは、すれ違うこともなかったに違いない。井上ひさしさん、大岡信さん、大野晋さん、丸谷才一さんといった方々に文章心得を教わることなど、ありえなかったろう。

 私は幸せな記者、編集長だった。そういう人生を送ることができたのは、ひとえに『朝日新聞』の看板のおかげである。大恩のある『朝日新聞』を「廃刊にしろ」という声を聞くのは辛い。私はいま、俗な言い方になるが「憧れた女性がじつは大変なアバズレだったのか」という気分である。

 「泥棒にも三分の理」ということわざがあるが、アバズレの言い分を聞いてやってくださいという気にもなる。従軍慰安婦問題、東電福島第一原発・吉田所長の調書の問題、池上彰氏の「新聞ななめ読み」の扱い。こういう問題を起こしたいちばんの原因は何か? と聞かれれば、私は1980年に朝日新聞社が有楽町から現在の築地に移ったことだと答える。

 有楽町時代は足の便がよいので、有名人が雨宿りをかねて朝日新聞社に立ち寄ることが珍しくなかった。言葉を換えれば、社外の監視の目に晒されていたことになる。社会部員は陽が落ちると、映画を見に行ったり、飲みに行くのが普通だった。どういうことが世間の関心を集めているか、映画館や飲み屋のおしゃべりに聞き耳を立てる。

 そのまま家に帰らず、別の飲み仲間を探しに会社に戻ってくる。会社のソファでその夜に仕入れた話を披露する。そうやって、街の風とでもいうものが、絶えず社内に入っていた。

 ところが地下鉄大江戸線ができるまでの築地は、陸の孤島といってもよいほど、足の便がよくなかった。「目標はがんセンター」と聞けば、二の足を踏む人がいたはずである。

 おまけに、有楽町時代は1階の受付に一言声をかければ、誰でも社内に入ることができた。しかし築地に移ってからは、出入り口にガードマンが立つようになり、受付では自分の住所や面会の約束はあるかなど、「入館証」なるもののためにいろいろ書かされる。『朝日』は世間に敷居を高くしたのである。

 社内に、外国のある通信社の支局がある。支局長は愛犬家で、犬のための入館証ももっていた。ある日、支局長が自分の入館証を忘れたために、犬だけが入館を許された。滑稽である。その顛末を『毎日新聞』に書いた。紙面のエクボになっていた。

 その支局長と親しい記者が『毎日』にはいても『朝日』にはいなかった、ということである。


「天声人語」が色あせている


 築地に移ってからの記者を見ていると、出不精で、人付き合いが不得手になったように思われる。私が「司馬遼太郎さんに紹介するよ」と誘っても、「いいです」という論説委員が「天声人語」を書くようになれば、看板コラムが色あせるのは、当然かもしれない。

 文化とは社交であることを知らないままに局長や役員になる傾向が目立つようになったのも、築地に移ってからのような気がする。

 あれはサントリーの佐治敬三会長(故人)が朝日新聞社(当時、出版局は別会社になっていなかった)から句集を出し、出版記念会が東京会館で開かれたときのことである。句集は大岡信さんが句を選び、記念会の発起人は俳句会の最長老、森澄雄さん(故人)と大岡さんと『朝日新聞』のM社長(故人)の3人だった。私が丸谷才一さんのお伴で行くと、受付にいた会長夫人が駆け寄ってきて、

 「まあ、先生。こんなつまらない本のために」

 と、「つまらない本」を何回か繰り返した。

 シェークスピアは「将軍の妻は将軍の将軍である」といったそうだが、なるほどそうだと思った。

 佐治さんが主役とあって、政財界の大物が顔をそろえ、『読売新聞』の渡邉恒雄さん(現会長)が見えた。渡邉さんと『朝日』のM社長が並ぶと、M社長は位負けしているように見えた。

 例のごとくM社長は会場がシンとなるような祝辞を述べると、主役や渡邉さんを残して中途で退席した。ショックな出来事だったが、社交を知らないだけで悪意はないと思って納得するしかなかった。

 『朝日』の役員になる編集出身者は、笑わせることと笑い者になることを混同している。スピーチで笑わせるためには、教養とユーモアと巧みな話術が欠かせない。しかし笑い者になるには、そうしたものはいらない。新聞の社説のようなことを話せばよいだけである。

「ものいわぬ小羊」たちが、立ち上がった


 偉そうなことを書いてきたが、週刊誌の編集長から新聞の編集委員になってからも、サッカーの神様ペレの足を触ってその感触を書いたり、日本で「軍艦マーチ」を最初に流したパチンコ屋の話を聞いたり、作家、白洲正子さんの追悼文を書いたり、間違っても一面トップになるようなものや、新聞協会賞の候補になるものは書いたことがない。

 その程度の者だが、「『朝日』廃刊」といわれると、黙っていられなくなる。あちこちに書いたりしゃべったりしたことだが、私は2001年11月に定年退職するとき、

 「生まれ変わっても慶應義塾に学び、『朝日新聞』の記者になって現在の妻を娶り、『週刊朝日』の編集長から一記者に戻って終わりたい」

 と、社内報に書いた。

 この気持ちは年金生活になって13年のいまも変わらない。妻は「私はいやよ」といったが、私は夫としても父親としても落第だった。そういう自覚があるから、妻の反応は想定内である。

 社内報の文字数に余裕があれば、

 「生まれ変わって『朝日』に入ったら、敵を増やさぬように賢く立ち回る」

 と書きたかった。

 冗談はともかく、生まれ変わったときに『朝日新聞』がなくなっていると、路頭に迷うことになる。これは絶対に避けたい。廃刊論を唱える識者には、以下をぜひ読んでもらいたい。

 これまでの『朝日新聞』なら、今回のようなことが起きても、社内から幹部を非難、批判する声が上がることはなかった。私がマスコミ業界雑誌『創』で『朝日』の紙面批判をやや辛辣に書いたのも、「記者諸君はいまのような紙面でよいと思っているのか。政局話ばかり書く政治部の編集委員の書くものに部内、社内から批判の声が出ないのはおかしい。自浄作用がないと思われるぞ」という気持ちがあったからである。

 ところが今回は、若い『朝日』の記者たちが批判の声を上げている。私のところには、

 「署名を集め、編集局長や編成局長あてに抗議文を出します。180人は超えました」

 といったメールが来る。

 「ものいわぬ小羊」たちが、立ち上がったのである。週刊誌によると、朝日新聞の労働組合には、実名で抗議のつぶやきが届いているそうである。「お利口さん」の集団と思っていた『朝日新聞』では、画期的なことである。

 私は若いとき、陰湿なことをする出世亡者のデスク3人に反抗し、仲間を誘って反乱を企てたことがある。こういうことをすると、人間がよくわかる。人間は『軍師官兵衛』の時代と少しも変わっていない、ということである。勉強になった。

 その経験から、

 「抗議をするときは、報復人事をされないように、とにかく同志を増やせ」

 と忠告している。

 彼らはこれから20年以上、『朝日新聞』の旗の下で仕事をするのである。彼らを孤立させてはいけない。

 最近の『朝日』は、記者を平気で使い捨てにするきらいがある。他社の優秀な記者を三顧の礼で迎えても、人事権を与えず、神棚に上げてしまう。彼らの多くは、すでに50も半ば過ぎになっているはずである。座して死(定年)を待つようなことはせず、若い記者たちを応援してもらいたい。

 女性編集委員のなかには、きわめて優秀な記者がいる。朝日新聞社で女性が編集局長になるようなことは考えにくい。いってみれば、使い捨てになる運命にある。若い記者を支えてもらいたい。

 『朝日』が、解体的出直しをするためには、社長以下役員がこれまでの考えを捨てなければならない。

 「経営の神様」といわれた松下幸之助翁は、相談役になってからも芸者遊びをしたそうである。しかし、そういう席にも、

 「相談役、そんなことしたらあきまへんで」

 と、面と向かって直言、諫言をする重役を二人は同伴したと、女将から聞いている。

 新社長には、こういう度量を期待する。イエスマンは100人いても一人、ということである。裸の王様にならずに済む方法は、じつに簡単なのである。

販売店に愛された永井さん


 部数はガタガタと減り、広告局員は営業先で、

 「いま、おたくに広告を出すと、社内で問題になるんだよ」

 といわれ、俯いている。

 新体制のとくに編集出身の役員は、実業の現場の声に耳を傾けてもらいたい。

 冒頭に紹介した『朝日』の「お家騒動」である。

 永井さんを追放しようとする村山社長に対抗し、販売店は結束し、集金した購読料を本社に納めず、裁判所に供託した。朝日新聞本社を兵糧攻めにしたわけである。

 現在、『朝日』は部数が減っているうえ、広告は年間700億円の目標に対し2、30億円足りないと聞いている。知り合いの広告マンが真夜中に「いま、家の近所の公園で、ブランコに乗っています」と、電話をしてきた。声があまりに沈んでいたので、翌朝早く電話をした。電話口で元気な声を聞いたときは、涙が出た。兵糧攻めは日に日に深刻さを増しているようである。

 「お家騒動」のときとは比べものにならないほど深刻なのではないか。

 このうえ「廃刊」を主張する人たちが不買運動を始めれば、生まれ変わった私は路頭に迷うかもしれない。

 51年前の「お家騒動」は販売店の「供託戦術」が功を奏したようで、村山社長は退陣、永井さんも退社した。「ケンカ両成敗」ということだろう。

 その当時、1万部以上の部数をもっていた販売店主のTさんに事情を聞くと、

 「あれは販売店が主導したのではなくて、販売局の幹部が『永井さんを守ろう』と考えた策略に、販売店が応えたのです。『朝日』の販売幹部にも真っ当な人がいたということです。そして、販売店が永井さんのことを好きだったからできたことです」

 といった。

 じつは私の『朝日』入社の身元保証人は、父と親しかった永井大三さんである。古い販売店の人が私に腹を割って話してくれるのは、そういう事情を知っているからである。

 永井さんは常務取締役時代、販売店を訪ねるとなると、そのお店の子供たちの名前を調べてから行く。店に入るなり、

 「○○ちゃんは元気かな」

 と、話しかける。

 大朝日の常務取締役にいきなりこういうことをいわれて感激しない店主は、いない。おまけに帰りの車中で、必ずお礼のハガキを書いたそうである。

 1988年に亡くなられ、翌年、永井さんの追悼録が編まれた。目次を見ると本田宗一郎さんや宮沢喜一さん、江戸英雄さんという方々の、故人との思い出話が載っている。どなたも永井さんとのエピソードを綴り、いかに永井さんは顔が広かったか、社交を心得ていたか、よくわかる。

 その追悼録を読むたび、

 「永井さんがいまの『朝日』を見たら、何といわれるだろう」

 と思う。

 永井さんだけではない。司馬遼太郎さんをはじめ井上ひさしさん、大野晋さん、丸谷才一さんが何とおっしゃるか、気が気ではない。

 販売店のTさんは、

 「せっかく若い記者が声を上げたのなら、永井さんのときのように、販売店も何かしないといけないんじゃないでしょうか。解体的な出直しには、店の協力がないとできない気がします」

 といった。


■川村二郎(かわむら・じろう)元『週刊朝日』編集長
1941年、東京都生まれ。慶應義塾大学卒業後、朝日新聞社に入社。社会部記者、『週刊朝日』編集長、朝日新聞編集委員を経て文筆業。日本医師会広報委員会委員。NPO法人日本語検定委員会審議委員。主な著書に『炎の作文塾』(朝日文庫)、『学はあってもバカはバカ』『夕日になる前に―だから朝日は嫌われる』(以上、かまくら春秋社)、『いまなぜ白洲正子なのか』(新潮文庫)『孤高―国語学者大野晋の生涯』(東京書籍)などがある。