三河の地に生まれ、遠江から天下への階段を駆け上がっていった徳川家康。晩年は駿河で過ごし、75年の生涯を閉じた。今年は没後400年、英傑として知られる武将の歩んだ足跡を、元NHKアナウンサーの松平定知氏が解説する。

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 豪快で破天荒な信長、ユニークで庶民的な秀吉に対し、家康には老獪でとっつきにくいといったイメージがついて回ります。しかし、あの天下人の陰には、失意と悲しみの前半生があったのです。

 まず3歳のとき、母・於大の方と生き別れます。父・松平広忠は今川義元の庇護を受けていましたが、於大(おだい)の方の兄が義元と対立する織田信秀(信長の父)と同盟したため、広忠は於大の方と離縁します。さらに広忠は今川家への忠誠の証として家康を人質に差し出したのです。家康、6歳のとき。

 ところが、今川家へ送られる途中、なんと護送役によって織田方に売り払われてしまいます。2年後、人質交換のため家康は今川家に送られ、家康が19歳だった1560年に桶狭間の戦いで義元が信長に倒されるまで人質生活が続きました。最も感受性の強い時期の人生が、大人の事情でかくも翻弄されたのです。

 生家・岡崎城に戻った家康は今川家と訣別して信長と同盟を結び、次第に力をつけ、1570年には新しい本城・浜松城を築きます。
天守閣が復元された浜松城。石垣は荒っぽい印象を受ける野面積みだ(撮影・芹沢伸生)
天守閣が復元された浜松城。石垣は荒っぽい印象を受ける野面積みだ(撮影・芹沢伸生)
 その頃、反信長同盟のリーダーとなった武田信玄が甲州から信長がいる京を目指します。途中、家康の領地である遠江国を無断で通過しようとしました。信長はやり過ごすよう助言しますが、それでは部下に示しがつかないと、若い家康は聞き入れません。信玄軍は三方ヶ原の台地(天竜川と浜名湖の間)を上っていきます。それを見た家康はほくそ笑みます。

「上りきったら、あとは狭い下りの一本道だ。そこを背後から急襲すれば信玄軍を殲滅できる……」

 ところが、家康軍が台地に上ったとき、信玄軍は正面を向いて待ち構えていました。戦い巧者の信玄は家康の考えなどお見通しだったのです。家康軍は大惨敗し、家康は恐怖心から馬上で脱糞し、命からがら逃げ帰りました。

 この1572年に起きた三方ヶ原の戦いのとき、信玄が徹底して家康を追えば、家康の命はありませんでした。そうなれば江戸時代が到来することもなく、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。しかし、信玄は家康を追いませんでした。家康などいつでも討てると思っていたし、すでに病魔に襲われていたので、京への道を急いだのでしょう。その病、やはり重く、信玄は翌年、道半ばで病死してしまいます。

 家康は九死に一生を得ました。この失敗を肝に銘ずるため、顰像(しかみぞう)と呼ばれる肖像画を残しました。そして、身をもって学んだのが「待つ」ことの大切さです。後に家康は「人の一生は重荷負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず」で始まる遺訓を残しましたが、三方ヶ原の戦い以降、家康は「待つ」ことで確実に天下をたぐり寄せました。

 それが強く発揮されたのが対秀吉の関係です。家康と秀吉がただ一度戦場で直接対決した1584年の小牧・長久手の戦いで、家康は局地戦で勝利しながら、和睦によって秀吉の家臣となりました。強引に天下取りに進むことなく、いったん待つことを選択したがゆえに、後により大きなチャンスと巡り会います。1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いです。

 家康はそれに勝っても、すぐには幕府を開きませんでした。1603年、天皇によって征夷大将軍に任命され、同時に源氏長者の官職を与えられます。名実ともに武家と貴族両方のトップとなるまで待ったのです。それだけではない。さらに大坂冬の陣、夏の陣で豊臣一族を滅ぼすまで、家康はさらに12年の歳月を待ちます。そこまで待って初めて、長きにわたる泰平の世を築くことができました。

 家康の我慢と忍耐に成熟した男の器を感じることができるのです。

◆松平定知(まつだいら・さだとも):1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『19時ニュース』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授を務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。

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