戦争が始まったとき、狂喜したのは一般市民だけではなかった。多くの文学者たちが戦意高揚や礼賛の文章を発表している。詩人の三好達治は、真珠湾奇襲成功を祝した詩を発表し、歌人の斎藤茂吉は『何なれや心おごれる老犬の耄碌国を撃ちしてやまん』、会津八一も『ますらをやひとたびたてばイギリスのしこのくろふねみづきはてつも』と歌った。文芸評論家の富岡幸一郎氏が、文学者たちの言葉を読み解いた。

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 それは詩人や歌人ばかりではなく、西洋文学を深く受容して、近代批評を確立した小林秀雄のような理論的な批評家も同じであった。

 真珠湾攻撃の機上からの撮影写真から、小林は次のような文章を紡ぎ出す。

作家で評論家の小林秀雄=1968年6月12日
《空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曳いて。さうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、という事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであろう。……そういう光景は、爆撃機上の勇士の眼にも美しいと映らなかった筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去った彼等の心には、あるがままの光や海の姿は、沁み付く様に美しく映ったに相違ない》

 戦時中に小林秀雄は『無常という事』『西行』『実朝』『平家物語』など、古典に材をとった名編を執筆している。ランボーやボードレールなど西洋近代の文学を論じてきた小林は、高村光太郎のように開戦に際し歓喜の言葉は記していないが、ここであきらかに日本人の魂の深部に降り立ち、「爆撃機上の勇士の眼」におのが眼差しを重ねている。鋭利な批評家はここで、国民の一人として、全身全霊で祖国の戦争に参加しているといってもよい。

 昭和12年、日中戦争の折に小林はすでにこういっていた。

《……戦争が始まっている現在、自分の掛替えのない命が既に自分のものではなくなっている事に気が附く筈だ。日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名に於ても。これは烈しい事実だ。戦争という烈しい事実には、かういう烈しいもう一つの事実を以って対するより他はない。将来はいざ知らず、国民というものが戦争の単位として動かす事が出来ぬ以上、そこに土台を置いて現在に処そうとする覚悟以外には、どんな覚悟も間違いだと思う。

 日本に生まれたという事は、僕等の運命だ》(「戦争について」)

 戦争という「烈しい事実」が、小林秀雄という文学者の魂を揺さぶり、自らのなかにある「日本」を烈しく自覚させたのだ。敗戦後の日本は、このような文学者の声を封印してしまった。

 戦争を賛美した者は、戦争責任者として葬り去られた。平和は尊い。たしかにそうであるが、戦後70年ものあいだ日本人は自らが戦った戦争の真実に目を向けてこなかった。しかしグローバルな「戦争」の時代に突入した今こそ、祖国の戦争をあらためて直視すべきだろう。

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