本郷和人(東大史料編纂所教授)

 前回、友人と行った小旅行記を書いたところ、わりと好評でした。それで調子に乗って、続きを書きたいと思います。おつきあいください。

 桶狭間に行った翌日、私たちはレンタカーに乗って名古屋を出発。岐阜県恵那市岩村町にある岩村城に赴きました。女性城主がいた城として有名なところです。再来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公が井伊直虎(徳川四天王の一人・井伊直政の養母)に決まったことですし、同じ女性城主として、注目されることになるんだろうな。
日本三大山城のひとつに数えられる名城、岩村城の「6段壁」
日本三大山城のひとつに数えられる名城、岩村城の「6段壁」
 源平の合戦で活躍した武士に、加藤景廉(かげかど)という人がいました。源氏の家人で、1180年の源頼朝の挙兵にいち早くはせ参じ、鎌倉幕府の有力御家人に名を連ねました。彼の長男の景朝は美濃国遠山荘を頼朝から賜り、遠山姓を名乗りました。これが遠山氏の始まりで、この後、同氏は戦国時代に至るまで岩村城により、周辺を治めていたのです。

 岐阜県は合掌造り集落(世界遺産!)で有名な白川郷を擁する飛騨国と、司馬遼太郎『国盗り物語』の舞台となる美濃国から成っていますが、いま美濃部分の地図を広げてみると、面白いことに気がつきます。というのは、美濃武士の本場は同国の広々とした中心部(濃尾平野の一部)ではなく、南東の山あいの周辺部なんですね。愛知(尾張)県境に近い多治見・土岐(室町時代の美濃守護家の名字の地)。長野(信濃)県境に近い中津川・恵那。中世の武士は、どちらかというと狭隘(きょうあい)な地域から出ているのです。

 遠山氏もそうした家の一つで、最後の当主は景任(かげとう)。彼は信濃を制圧した武田信玄に従い、同時に尾張から美濃に勢力を伸ばした織田信長にも接近していきました。強大な両家に属していたわけですが、これははじめ、織田家と武田家が同盟していたから可能だったのです。時期は不明ですが、景任は信長の叔母(おつやの方、と呼ばれる人)を妻として迎えました。また彼の姪が信長の養女となり、信玄の子である勝頼(後に家督を継ぐが、まだこの時は庶子として遇されていた)に嫁いでいます。

 元亀2(1571)年、景任が病没すると信長は五男の坊丸(のち織田勝長)を遠山氏の養子としました。織田・武田両家はすでに同盟を破棄しており、両者の勢力がせめぎ合う岩村城は、戦略的価値の高い城として認識されたのでしょう。景任未亡人は幼少の養子に代わり、実質的な女城主として振る舞いました。

 翌年10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に信濃の伊那郡を任せていた秋山虎繁(とらしげ)(大島城主。かつては信友といわれた)に岩村城の攻略を命じました。岩村城はなかなか落ちませんでしたが、虎繁はおつやの方を説得し、妻に迎える(否定する説も出ています)ことを条件に城兵を助け、城を占拠しました。

 天正3(1575)年、長篠の戦いでの勝利を受けて、信長は岩村城奪還を計画しました。両軍の5カ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず、城は陥落しました。城主である秋山虎繁とおつやの方は、長良川河川敷で処刑されたといいます。

 このあと、信長配下の河尻秀隆や森蘭丸の森一族などがこの城を獲得しますが、江戸時代には松平(大給(おぎゅう)松平)氏が城主であった時代が長くあります。石高は3万石ほどなのですが、今に残る石垣は、それはそれは見事なものです。大名権力の強大さ、ということを思わずにはいられません。

 最後に付け加えておきますと、明治から大正期にかけて活躍した女子教育の先覚者、下田歌子は岩村藩士の娘だったのですね。それから、佐久間象山、渡辺崋山(かざん)、横井小楠(しょうなん)らを育てた儒学者、佐藤一斎も岩村藩の家老の息子。同藩の教養の高さがうかがえます。

ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。