徳岡孝夫(ジャーナリスト)

 「安倍さん、真珠湾に行っとくれ」という私の記事が文藝春秋の8月号に載りましたが、安倍さんは真珠湾に行くべきだってハッキリ言ったのは僕だけだったんじゃないかな。ルーズベルト陰謀論だとかの歴史修正主義や正当化といった真珠湾をめぐる論争はさておいて、亡くなった人のために拝むことをしない国は一流国ではないと思うんですよね。

アリゾナ記念館(奥)を訪問後、演説する安倍晋三首相(中央)。
左はオバマ米大統領=12月28日、米ハワイ州ホノルル市(代表撮影)
演説する安倍晋三首相(中央)。 左はオバマ米大統領=12月28日、米ハワイ州ホノルル市(代表撮影)
 日本でも被害者意識がはやっている。しかしそれだけが唯一の道じゃない。立派な国は、ケリをしっかりつける。着物を縫って、糸に玉をつくって留めておかないと着物なんてできません。日本が真珠湾のことを知らん顔していたら、礼儀を知らんところもあるなと心ある人は思うだろう。謝る必要はないと思うし、行かないことに反対というわけではないが、行ってほしいと思っていました。

 真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の朝、私は小学6年生で、ちょうど授業前に校庭で鬼ごっこをして遊んでいたところに「帝国陸海軍は西太平洋方面において米英両国と戦闘状態に入れり」という大本営海軍本部発表の臨時ニュースが流れたんです。その時は、急に自分の声が大きくなって、走るスピードが速くなった気がしました。「さあ来い。水雷でも駆逐でも何でも沈めてやるぞ」と、小学生ながら国の運命が自分の足に乗り移って、力がみなぎってくるような感覚になりました。

 真珠湾のことは知らなかったが、アメリカとの戦争は仕方ないということは、常識としてありました。昭和12年に支那事変(日中戦争)が始まって、首都の南京を占領したが、蒋介石率いる中国政府が奥地に引っ込んで徹底的に抗戦し、どこまで追いかけて行ったらいいのか、いくら兵隊が必要なのか、先の知れない不安が日本人の心の中にありました。背後で蒋介石の腐敗した中国政府を支えているのがアメリカだというのも知られていましたから、これは国運をかけた戦争だ。生きるか死ぬかだ。という気持ちは小学校6年生の子どもにもあったんです。

 しかしその後、落ち着いて考えると、これは大変なことになったぞと感じました。私は家の商売の関係で3度中国に行ったことがあり、中国がいかに底が深いか知っていた。広大で人口も多く、簡単な国でないことは分かっていました。

 終戦前は中学生でしたが、勤労動員として西大阪にある鉄道省のレールやそれに付随する金具を扱う倉庫で働いていました。いつも標的にされて爆撃を受け、バケツリレーで火を消していました。作業が終わると、鉄橋の上を歩いて10キロほど歩いて家に帰る毎日でした。

 家では暗幕を閉めてから電気をつけないと光が漏れてB29に狙われるといわれていたので、真夏でも締め切って寝ていました。空襲警報があると、僕が自分で掘った防空壕に逃げ込むのですが、就寝中に二度も空襲警報があって叩き起こされたときは「死んでもいいからここで寝てる」とそのまま防空壕に入らずにいたこともありました。そんなやけくそのような雰囲気もありました。