安倍首相のお気に入り?

 69回目となった今年の「終戦の日」。政府主催の全国戦没者追悼式が東京で開かれ、安倍晋三首相は式辞で戦没者に哀悼の意を表すとともに、今日は平和への誓いを新たにする日だ-などと述べた。

 「加害責任」や「不戦」への言及がなかったことを取り立てて書く新聞もあったが、私個人の感想では、国家のリーダーとしての思いがよく伝わってくる、なかなかの出来栄えではなかったかと思っている。

 ただ一点、瑕疵(かし)を挙げるとすれば(といっても本欄の性格上、あくまで国語にかかわる話ではあるが)式辞に次のような文言があったことである。

 「世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し…」

 「できる限り」の意で用いられているこの「能うる限り」は、一歩、いや百歩譲っても、正しい日本語というわけにはいかない。正しい表現は「能う限り」である。三省堂国語辞典の「あたうかぎり」の項にも「あやまって『あたうる限り』」との注記がみえる。

 「能う」は五段活用(古語の「能ふ」は四段活用)の動詞で、「限り」に接続する連体形は口語、古語ともに終止形と同じ「能う(ふ)」である。

 それにもかかわらず産経のほか朝日、毎日、読売も「能うる限り」のままで伝えていたのは、たとえ誤りとの認識があったとしても、さすがに式辞の文言を改めるわけにはいかなかったからだろう。

 安倍首相(あるいは首相のスピーチライターか)は、この「能うる限り」がとにかくお気に入りのようである。昨年9月にも国連総会で「シリアの化学兵器の廃棄に向けた国際社会の努力に、わが国は、徹底的な支持と、能うる限りの協力を表明します」と演説していた。

 これを報じた某紙の記事は「シリア問題について『あたうる限りの協力を表明する』と述べ…」と、首相の演説通りに「能うる」を使っていたが、本紙の「主張」は「…化学兵器の廃棄に向けて『徹底的な支持とあたう限りの協力』を表明した」と、正しい語形の「能う」に改めたのだった。

 さらにさかのぼった第1次安倍内閣の平成19年、インドネシアで行った政策スピーチにも「私と日本国民は、あたうる限りの努力を一緒にさせていただきたい…」と出てくる。

 辞書がわざわざ注意を呼びかけるくらいだから、「能うる限り」は首相だけでなく国民一般にも広く浸透した言い方になっているものと思われる。ではなぜ、このような誤用がたやすく起きてしまうのか。以下に愚考を書き連ねてみた。

 第一に思いつくのは、「能う限り」とほぼ同義に用いられる「でき得(う)る限り」や「なし得る限り」の「得る」に引っ張られ、言語中枢のどこかで「あた得る限り」に変換されてしまうからではないかということだ。

 次には、「あらん限りの力を与えたい」との思いが強かったためか、「与うる限り」との混同が生じたとも考えられる。下二段活用の古語「与ふ」の連体形は「与ふる」である。

 また、こんな想像もしてみた。「そして私は、静かに死ぬる、坐つたまんまで」(中原中也「わが半生」/『在りし日の歌』所収)、「もう夜が明くる。往(い)んで欲しいと」(坂口安吾『文章その他』)。この例ではそれぞれ「死ぬ」「明く」と終止形にするのが本来だろうが、「死ぬる」「明くる」と古語の連体形を用いている。

 「~る」という形にすることで動詞としての据わりがよくなるのかもしれない。そしてそうだとすれば、ついつい「能うる」と言ってしまうのも、全く分からない話ではなさそうだ。

 …と結局、決め手となるような理由が見つからず浅学を恥じ入るばかりだが、負け惜しみとの批判を承知のうえで言わせてもらうなら、「能うる限り」でそれほど騒ぐこともあるまいというのが本音ではある。

 それより何より、首相の式辞に「加害責任」への言及を求めた新聞社が、間違った「慰安婦」情報を垂れ流し、日本の名誉と国益を損ねた自らの「加害責任」には一切言及しないことこそ、じつに大きな問題なのではなかろうか。
(産経新聞論説委員・清湖口 敏)