村中璃子(医師・ライター)
――ある老婆の血液を採取している最中、彼女が突然発作を起こして暴れだした。狂ったように彼女が片手を振り回した拍子に、注射針が抜けた。それだけならよかったのだが、血まみれのその針がマコーミックの親指に刺さってしまったのである。あっ、と思ったときには遅かった。こいつまずいぞ。針は深々と刺さってしまった。ウイルスが彼の血流に入り込んだのは間違いない。

 エボラ出血熱を題材にしたノンフィクション小説『ホット・ゾーン』の一節。マコーミックは米疾病対策センター(CDC)の特殊病原体研究室の主査で、1979年のアウトブレイク(流行)の時、南スーダンから生きたエボラを持ち帰ることを志願した唯一の医師だった。この後、彼が懐から取り出すのは、氷で冷やしながら携帯していたエボラ「抗血清」の小瓶。抗血清とは、感染したのに回復した患者から採取された血液の上澄みのことで、中にはエボラウイルスと闘うための免疫(抗体)がたっぷりと含まれている。マコーミックは、当時、唯一有効性が期待される治療法とされていた、この「抗血清療法」を自らに試し、死を免れた。

 エボラにはじまったことではない。日頃からも針刺し事故は、医療者にとっての身近な恐怖。日本での受け入れ準備に関して、施設や設備、防護服などに関する報道ばかりが目につくが、筆者が最も気になるのは、日本でエボラの抗血清が準備されているのかどうか。抗血清療法の安全性や効果を疑問視する声もあるが、それは対処療法以外のすべてのエボラ治療において同じ。日本製の抗インフルエンザ薬「ファビピラビル(商品名:アビガン)」や、米ベンチャーが開発中の「ジーマップ(ZMapp)」など、未承認薬にも期待したいが、抗血清療法はそれこそ最も古典的な、実績のあるエボラ治療法だ。

 1976年のコンゴ(現、ザイール)のアウトブレイク時に、類似ウイルスであるマールブルク病から回復した患者から取った血清をある女性に使用したところ、効果が見られたのが最初(ただし、女性は後に死亡)。1995年のコンゴでのアウトブレイクでは、投与した8人中7人が回復した実績を持つ(注:文末参照)。万が一日本でも患者が出た場合に使えるようにしておくのはもちろんのこと、針刺し事故も想定して、医療者用の予備も絶対に準備しておきたい。

 患者が増え続けているという悲観的報道の傍ら、未承認薬に関しては安全性が確認されないのに「効いているようだから、使うべき」というような、楽観的トーンが強い。特に発症の初期、発熱から5日以内での投与例での治療成績は有望に見える。

治療法によらず、日本に欠けていること


 では、日本でも薬や抗血清が手に入り、早期に治療を開始できれば、とりあえずは万全、といってよいのだろうか。実は、これらの治療法を実際に日本で運用するに際し、すべてに共通して言える、非常に重要なことがひとつある。

 それは、日本では、エボラ患者と分かれば、強制的に隔離・入院させられるが、「退院はできない」という、衝撃の事実だ。

エボラ患者が出た場合、現場では、他の病気と同様、まず診察と検査をし、治療方針を立てるために、患者の状態の評価をする。エボラの場合、患者状態を評価する際の基本となるのは、血液中のウイルス量。エボラは、発熱で始まる急性期(急に症状が出て悪くなって行っている時期)に、ウイルス量が増加。回復期に入ると突然、ウイルス量が減少に向かうことが知られている。入院時採血で得られたウイルス量をもとに治療方針を決め、治療を開始した場合、それが効いているのかを評価していくのもまたウイルス量による。医療現場では、血中のウイルス量が把握できて初めて、患者の状態や病気の進行ステージを理解し、有効性を評価しながら、治療を進めていくことができるのである。

 エボラウイルスは感染法上の1種病原体、世界保健機関(WHO)基準ではリスクグループ4、つまり、地球上でもっとも危険性が高い部類に属する。1から4まである国際的バイオセキュリティ基準(=バイオセキュリティレベル、BSL)の最高段階、BSL-4(レベル4)の検査・実験施設でしか取り扱うことができない。レベル4の施設は日本にもある。しかし、日本ではBSL-4に相当するラボ(国立感染症研究所村山庁舎)が正式稼働していないのが現状だ(感染症法の表現としては、1種病原体等取扱施設として厚生労働大臣の指定を受けていない)。

 厚労省によれば、「エボラ疑い」の段階の患者から採取された血液検体は、レベル3の施設でも取り扱うことができる。そのため、エボラかどうかの診断までは現状でも下すことができる。しかし、エボラと確定して以降は、エボラウイルスの含まれた血液などの検体を、レベル3で扱うことができなくなる。

 エボラ患者が「回復した」と判断されるのは、状態が良くなり、かつ、血中からウイルスが検出されないことが確認されたとき。こうなれば、エボラを他人に感染させるリスクも、自らが再びエボラに感染するリスクもない。しかし、この判定にはレベル4として正式稼働している施設が必要だ。

 エボラと確定すれば、隔離され、治療を受けることはできる。しかし、レベル4施設が正式稼働せず、エボラ治療の基本である血中のウイルス量測定すら出来ないこの国では、入院時の状態や治療の評価はおろか、「回復した」という判断を下すこともできないのだ。レベル4を正式稼働しないとは、医療者に手探りで医療を施せと言っているようなもの。患者が回復し、仮に退院できるとなっても、まだ感染源であるかのようなスティグマを押されてしまう事態も懸念される。

新型インフルエンザとの比較


 2009年の新型インフルエンザでは、WHOがパンデミックを宣言して世界を不安に巻き込んだが、当初予測されたよりも「致死性が低い」というウイルスの性質に助けられ、それほど大きな被害はなかった。実をいうと、過去にパンデミック(世界的流行)を起こしたインフルエンザウイルスはすべて致死性が低い型のもの。「スペイン風邪」(風邪と間違えられたが、実はインフルエンザ)と呼ばれた1918年のパンデミックでは世界中で多くの死者が出たことが知られるが、それは当時の医療水準が低かったためだ。

 エボラ出血熱の致死性は高い。すでにアフリカを中心として、多くの死者を出している。しかし、思い出してほしい。エボラは飛沫で流行しやすいインフルエンザとは異なり、体液に直接触れることでしか感染しない「流行しづらい」病気である。見てのとおり、他人との距離が遠く、衛生状態のよい先進国では、医療者や渡航者の散発例は報告されても、一般人の間での流行は見られていない。

 2009年の新型インフルエンザが「致死性が低い」というウイルス自身の性質に助けられてきたように、エボラもまた「流行しづらい」というウイルスの性質に助けられ収束していくのか。希望を持ちつつも、これを機にやるべき体制づくりを急ぎたい。