なぜ奇妙か? さきに富のみを追求する経済学のあり方に疑問を提起したシスモンディを例示した。シスモンディは、原氏の論説の後段でも出てくる「定常化社会」や経済成長懐疑論の源流である。

 シスモンディがなぜ富の追求のみを追う(つまりGDPのみを追う)経済学のあり方に疑問を抱き、それに代わる人間の価値を高める経済学を追求したのだろうか。それはシスモンディの時代に恐慌(経済危機)で働きたくても働けない、困窮した多くの人をみてのことだった。つまり雇用の悪化とそれによる生活苦が、シスモンディにいくら財が豊富でもそれを買うお金がなければ意味がない、それによって人は貧困に陥り、人間の価値を高める機会を失う、とみたのである。

 だが、原氏には25年前の80万円の価値があるスマホが8万円になったことを称賛しても、シスモンディのような雇用機会の確保の重要性や購買力(総需要)への重視はない。つまり原氏の認識こそが、実はご本人の意図とは異なり、富の追求それ自体をまさに称賛しているものなのだ。

 さて、シスモンディの考え方-人々に購買力をもたらす雇用機会の確保-という経済思想は、富の追求のみを重視する「原真人型」(!)の経済論を否定しながら進展していく。例えば、19世紀から20世紀はじめにかけて活躍したジョン・アトキンソン・ホブソン、現代の福祉社会論の父ともいえるウィリアム・ベヴァリッジ、そしてホブソンやベヴァリッジの意義を認めていたケインズなどである。ベヴァリッジは特に労働という側面だけではなく、病人・幼児・老人あるいは女性などの「社会的弱者」を救済する社会保障の仕組みと、完全雇用のふたつを自らの福祉社会論の骨格とした。

 経済危機からの完全雇用の達成には、経済の拡大が必要である。経済が拡大する中で、財政が改善し、それによって社会保障の基盤も充実していく。そればベヴァリッジの基本構想だった。つまり福祉社会は完全雇用をもたらす経済成長とは矛盾しないのである。矛盾しないどころか、完全雇用は福祉社会の重要な核である。

 また原氏は論説でGDP懐疑論や低成長「正常」論を唱えているが、日本ではこの種の議論のときにしばしば援用される、『スモール・イズ・ビューティフル』という本がある。著者はエルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー。本の題名からもわかるように、彼は富の追求自体に重きを置く経済成長論に否定的だった。

 だが、ここでもシスモンディやベヴァリッジ同様に忘れてはならないことがある。シューマッハーは、ケインズの経済学に多大な影響をうけた「雇用重視の成長」論者であるのだ。シューマッハーとケインズ、ベヴァリッジはそれぞれ生前に面識があり、社会保障の拡充と完全雇用の達成という現代の福祉社会論の構築に大きく貢献した。ベヴァリッジに雇用の重要性を教えたのは、ケインズの影響をうけたシューマッハーであった。

 ここまでお読みいただくと、原真人氏に代表されるような低成長「正常」化=GDP懐疑論者が、いかに一面的なものかがおわかりいただけるだろう。それに対して、富の追求ではない、人間の価値を追求してきた経済学者たちの多面的で、豊かな経済認識の格闘があったことも。

 アベノミクスを建設的に批判するなら結構である。それはそれで得るものがあるだろう。だが、残念ながら原氏の論説からは、単なるトンデモ経済論の音しか聞こえない。