野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家)

 昨今の教育現場での「いじめ現象」に接するたびに日本人の資質が変質しているという感が否めない。そこには、おぞましい残虐性と卑劣さが窺えるからである。もはや「イジメ」などという言葉では表せない。これらは正に凶悪犯罪である。許しがたい悪業と言わざるを得ない。

 そもそも日本人が近代において持続してきた精神性は「武士道」に起因する。武士道には「勇猛さ」や「潔さ」に加え、実はその根底で最も重要な「徳」として唱えられているのは「卑怯であってはならない」ことと「寛容である」ことの二点に帰結する。

 今の子どもたちは聴くこともないであろうが、我々の幼少期には「昔噺(むかしばな)し」というものがあった。テレビもネットもない時代に、紙芝居や家族を通じてその物語りに触れた。その物語りは「勧善懲悪」であり、その退治された悪人(鬼)も、改心し反省すれば味方(子分)にするという寛容さがあった。『桃太郎』がその代表作であるのだが、絵本の中の鬼は悪行を働くときは正に鬼の形相だが、懲らしめられた後の子分として追従するときの顔はやたら柔和で仏の顔の如く変身している絵を見て妙に納得して安堵したことを思い出す。

 こうした物語りに接するたびに子ども心に寛容(許す)ということを身につけていくのだ。敵対しているときは力の差でもって相手を懲らしめ(イジメ)るが、どこかの時点で許し、その後は味方として自分の懐に入れて面倒をみるという寛大さを学ぶのだ。

 西洋のチェスと違って日本の将棋は、敵の駒を奪ったらその後、自軍の戦力として生き返させるというルールがある。これが日本の「寛容の文化」である。

吾妻署で開かれた「少年柔剣道教室」で剣道7段の大沢孝志刑事課長(右)から
剣道の手ほどきを受ける少年少女=2010年9月1日、東吾妻町
吾妻署で開かれた「少年柔剣道教室」で剣道7段の大沢孝志刑事課長(右)から 剣道の手ほどきを受ける少年少女=2010年9月1日、東吾妻町
 昔のガキ大将は、ケンカやイジメもしたが、負けて泣いている者や、謝っている者には、もうそれ以上は殴らないという暗黙のルールがあったように思う。「武士道」の寛容さは「昔噺し」を通して生きていたのである。

 幼少の頃、物理的に大人には敵わないと自覚する時期があった。どうあがいても肉体的「力」関係において子どもは敵わない。実は、このときが人格形成をする上で大人の責任としての最大の教育的チャンスである。

 大人と子供、男性と女性、教師と生徒など、この世に存在しながら、尚かつ必要にして十分条件を満たす事柄としての差異。これを正しく自覚することが、世の中や社会のことを身をもって感知していくことなのである。