異質な存在はターゲットにされやすい


 大津のいじめ自殺事件では、様々な深刻な事実が明らかになっている。

 先の定義から考えると、(1)自分より弱いものに対する (2)反復・継続した攻撃・排除であって、しかも攻撃されたものが (3)苦痛を感じるものでなければならない。

 自分より弱い者を選び、もしくは徒党を組むことによって多数で、繰り返し攻撃を加える。上記の攻撃の型を一つ選んだだけでも十分にいじめとなる。しかも、大津の事件では自殺の練習をさせられていた。

 1937年のいじめはどうか。舞台は東京、山の手の(旧制)中学である。生徒はほとんどが官僚、大企業の役員、医師、弁護士などエリート層の息子たちである。ここでいじめのターゲットになっていたのが、この地域の中学では希な豆腐屋の息子だった。父親は金に困って金策に出ている。弁当は家業のものですます。この浦川は家業の手伝いでしょっちゅう学校を休んでいる。この地域の中学では数少ない貧困層である。いわば異質の存在である。異質の存在は、排除や攻撃、差別の対象となりやすい。いじめは少数者がターゲットになる。


日本の学校の仕組みに原因が


 なぜ、学校でこれほど頻繁にいじめが起きるのか

 それは学校が他の社会と比べてもいじめが起きやすい場所だからである。子どもたちのストレスを作り続ける日本の学校の仕組みにいじめの原因がある。

 (1)クラスという小さな箱の中に多数の子どもが詰め込まれているという学校の作り方 (2)同じ内容のカリキュラムを一斉に学ぶという管理と競争のシステム (3)1年間(中には数年に及ぶ)という長期にわたって子どもたちが同じ「密で濃い」閉ざされた空間の中で過ごさざるを得ない (4)日本の学校の集団優先の全員一致主義が子どもの意識の中にも大きく影響している
 日本の学校の構造は固定されたクラスや座席からつくられ、いじめから逃れられないようにできている。1937年のいじめでも、「いじめられっ子」の浦川の席の後ろは「いじめっ子」の山口で、周囲をそのグループに取り囲まれていた。 

 子どもたちは、同じクラスで、規則や教師のまなざしの中で管理と競争という過酷な環境の中で1年間(中高一貫では6年。中には小中高12年も一緒と言う学校もあるが)を過ごす。

 学校(教室)空間にはたくさんの約束事がある。

 学校は子どもたちにとって、友だちをつくる場である。しかし、クラスのメンバーを決めるのは子どもたち自身ではない。決められたクラスのメンバーには相性が悪かったり、なかには「いじめっ子」もいよう。そんな中でも、子どもたちは、友だちをつくらなければならない。「いじめっ子」であっても、何らの関係性をもたないという選択肢は子どもたちにはない。

 しかも、学校には、体育祭(運動会)、遠足、修学旅行など多くの行事がある。その都度、「班」が作られる。どこでも教師ははみ出しっ子をどこに入れるか、この班づくりで悩まされる。どこにも入れない子がいじめの対象になっていく。

 教師が、「Aさんをこの班に入れてあげて」と頼むと、子どもたちは「入っていいよ」と言うのだが、必ず「うざい!」「面倒くさいなぁ!」というまなざしが返ってくる。

 軍隊(警察)などタテの階級制度を中心に成り立っている組織でいじめが多いのは一般的に知られた事実だが、部活動やサークルなど、より強固な人間の関係性を保つ必要がある場ではいじめが起きやすい。さらに厳しい競争にさらされていればいるほどいじめも起きやすい。いじめはある意味でストレスの解消に使われている場合が多いからである。

 部活動に熱心な教師の世界でもよくみられる。若い教師を先輩教師が「パシリ」として使うのである。最近は中学生の中でも下級生が上級生を「先輩」と呼び、「パシリ」に使われている。いじめと変わらないが教師世界でもよくみられる風景だ。