八重山日報編集長 仲新城誠氏
 沖縄にとって5月と6月は特別な月だ。1972(昭和47)年5月15日は敗戦後、米軍統治下にあった沖縄が日本に復帰した「復帰記念日」であり、1945(昭和20)年6月23日は沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」に当たる。沖縄戦の苦難を乗り越えて勝ち取った復帰を喜び、現在の平和と繁栄を築いてくれた先人に感謝する日でありたい。

 ただ現在の沖縄では、日本復帰を「米軍基地の重圧を残したままの復帰」と否定的にとらえる論調が、主要マスコミを中心にむしろ支配的だ。在沖米軍を撤退させることが目的の「沖縄独立論」がもてはやされる風潮も、その一環といえる。

 「慰霊の日」前後には各学校で集中的に平和学習の授業が行われるが、戦争への恐怖をいたずらに煽り、子どもたちに非武装を促すような内容が目立つ。戦争犠牲者を追悼し、国を守るために戦った人たちに敬意を捧げるという、本来あるべき「平和教育」の要素はほとんど感じられない。

 こうした「復帰記念日」「慰霊の日」の現状について「沖縄の復帰運動と平和教育の淵源は反安保闘争と共産主義革命思想だった」と証言する人が那覇市にいる。元教員の仲村俊子さん(91)だ。

 次第に「反日化」していく沖縄教職員会(現在の沖縄県教職員組合)の運動に疑問を感じ、復帰直前の1969年、仲村さんによると「1万2千人の組合員の中からわずか6人だけ」組合を脱退した1人である。沖縄にとって特別な月を迎えるにあたって、まず仲村さんの証言を紹介したい。

沖縄復帰運動の歪みの背後に中国あり


 沖縄復帰運動はもともと、沖縄教職員会から始まったという。

 仲村さんらによると、1952年に設立された沖縄教職員会が中心になり、60年代は生徒に日の丸を配布する運動が盛んになった。純粋に沖縄の日本復帰を目指す運動であり、県内各地で日の丸が盛んに掲揚された。仲村さんは「日の丸を見ると、長く会えなかった親に会った気持ちになり、涙が出た」と話す。

 教職員会の復帰運動が変容したのは、日米安保に反対する闘争が激化した「70年安保」のころからだったという。

 教職員会の会長が、初代会長の屋良朝苗(のちの県知事)から、2代会長の喜屋武真栄(のちの参院議員)に交代した1968年ごろ。同会から「日の丸」への賛否を問うアンケート用紙が各学校の教員宛てに送られてきた。

 仲村さんが勤務していた学校の教員が「賛成多数」のアンケート結果を返送すると「突き返されてきた」という。今度は「反対多数」でアンケート結果を返送すると「OKが出た」。

 喜屋武は沖縄の無条件復帰を訴えて復帰闘争をリードした人物の1人であり、トップの交代が同会の活動方針転換に色濃く影を落としたようだ。

 同会が日の丸反対を打ち出したのと軌を一にして、反安保の姿勢も鮮明になった。仲村さんは、このころの同会が展開していた復帰運動について「復帰実現は県民を引き付けるための手段で、実際には安保反対が目的だった」と話す。

 沖縄教職員会が中核となってつくられた組織が、沖縄復帰運動の中核となった「沖縄祖国復帰協議会」である。

 「協議会の実態は、県民の感情を巧みに利用した反安保闘争組織であり、裏では日米同盟の破棄を企む中国共産党が糸を引いていた」

 仲村さんの子息でジャーナリストの覚さんは、教職員を中心に展開されていた沖縄復帰運動のルーツを、こう指摘する。

 証拠の一つとして挙げているのは、復帰直前の72年、中国が沖縄から友好訪問団を招いているという事実だ。団長は仲吉良新という人物で、協議会とともに復帰運動をリードした1人だった。訪問団は周恩来首相と会見。周恩来は「沖縄返還協定はペテンだが、しかし返還の始まりとみることができる」と発言したという。

 覚さんは、協議会が「沖縄復帰」の目的として「軍事基地の撤去」「安保条約の破棄」などを掲げていたことに着目する。毛沢東が1964年の人民日報で「(日本国内の)すべての米軍基地の撤去要求と米軍武装部隊の撤退の要求、日本の領土沖縄の返還要求、日米安全保障条約の廃止」を応援する、と述べたことと「見事に一致する」からだ。

 「沖縄を共産革命の拠点に」と画策する中国共産党の工作活動が、教員を中心に徐々に浸透していった―と仲村さん親子はみるが、象徴的な出来事が復帰前に開かれた教職員会の集会であった。

 「ヤクザに刃物を持たせると人殺しをするように、日本に軍を持たせると戦争になる」

 こう叫んだ参加者がいた。あきれた俊子さんは「有史以来、戦争をしたことがない国があったら教えてほしい」と発言し、立ち去った。すると残った参加者から「今の発言者を吊るし上げろ」と要求する声が上がったという。

 あとで判明したところでは「ヤクザ発言」をしたのは教員ではなく、革マル派の大学生だった。教職員会の集会には、こうした人物が紛れ込み、堂々と発言していたのである。

 仲村さんは70年6月、教職員会から脱会した。上原義雄さん(77)=那覇市=は仲村さんと行動をともにした教員の1人だが、学校の同僚が、中国が核実験に成功したというニュースを喜んでいたことを今も覚えている。

 「米国の核は侵略の核だが、中国の核は平和の核だと言っていた。最初は純粋な復帰運動だったのに、日教組の影響を受けて『核抜き、本土並みの復帰ではないからおかしい』などという運動に変わっていった。じわりじわり洗脳されていく感じだった」

 「平和教育」も、ひたすら日本軍の残虐性を強調する内容へ傾いていった。仲村さんは、復帰当時、教職員会から衣替えした教職員組合(沖教組)作成のパンフレット「これが日本軍だ~沖縄戦における残虐性」を現在も大切に保存している。

 冊子では、日本兵が軍刀で住民を斬首したとか、泣く子を絞殺したとかいうエピソードが約60ページにわたって満載されている。

 「復帰を前にして、なぜ沖縄県民は27年前の日本軍の残虐行為をあばこうとしているのか。それは自衛隊の沖縄配備と無関係ではありません。(中略)自衛隊即日本軍隊であるからです」

 冊子は「まえがき」にそう記しており、彼らの「平和教育」の究極的な目的とは「反自衛隊」(または反米軍基地)であることが分かる。

思考停止させる「平和教育」も独裁国家流


 話は少し変わるが、八重山(石垣市、竹富町、与那国町)の教科書問題でも、育鵬社の公民教科書採択に反対する運動の根っこは、与那国島への自衛隊配備などを阻止しようとする「反自衛隊運動」である。沖教組を中心とした反自衛隊運動は、こうして現在も脈々と沖縄で息づいている。

 沖縄の「平和教育」が実際には、自衛隊や米軍に反対し、子どもたちに「非武装」の思想を植え付ける宣伝活動にほかならないことは、石垣市で学校教育を受け、記者として学校現場を取材してきた私自身も実感している。

 授業では、児童に悲惨な戦場の写真を何枚も見せつけ、住民が追い立てられた壕を訪れて恐怖感を追体験させ、最後に「2度と戦争してはいけません」と「平和宣言」(実際には非武装宣言)させるのが代表的なパターンだ。

 演劇や紙芝居に残虐な日本軍を登場させるとか、反軍事、反基地を訴える「語り部」に講演させるなどという手法もある。

 担当する教員たちは意識していなくても、このパターンを踏襲しなければ「平和教育」ではないという刷り込みが脳裏にあるに違いない。何せ自分自身が、そうした平和教育を受けて育っている。

 石垣市の玉津博克教育長が昨年、「沖縄の平和教育は、戦争の悲惨さを強調する教育になっている。その弊害は、戦争に対する嫌悪感から派生する思考停止と言える」と発言して主要マスコミから袋叩きに遭った。

 玉津氏は続いて「現実社会では平和がいいと言っても戦争は忍び寄ってくる。どう平和を維持し、戦争を防げるか。情報収集力や思考力、判断力、行動力を身につける実践的な平和学習に改善したい」とも指摘した。本来の平和教育とはそのようなものであるべきだ、と思う。

 沖縄本島に住む、ある小学校教員は「沖縄戦の学習では、当時の日本、米国、沖縄という三者の視点が必要だと思うが、米国側の資料に偏り過ぎていて、日本側の視点に欠けている部分がある」と話す。

 駆逐される日本兵、逃げ惑う住民の姿ばかりクローズアップされ、たとえば故郷から出撃した石垣島出身の特攻隊長、伊舍堂用久中佐のような軍人がいたことなどが教えられることはない。

 仲村さんは、沖縄の平和教育の現状について「反日教育だ」と断言する。現在の中国共産党が国内向けに行っている反日プロパガンダと、質的には同一だからだ。国民に「思考停止」を要求するのは中国のような独裁国家の常套手段だ。

 「反日教育をやること自体が共産主義革命思想につながる。(組合は)教え子を革命の闘士に育成するようなことをやってきた。沖縄独立論も一緒」と危惧する。

 こうした証言を総合すると、沖縄の「平和教育」のDNAは中国の工作活動による共産革命思想だ、という解釈も成り立つ。やる気のある教員ほど、そうしたDNAに取り込まれた「平和教育」の罠に陥りやすいのではないか。

 私が取材した学校現場では最近、児童生徒に適当に合唱などさせて終わり、というまやかしの「平和学習」も見られるようになり、担当する教員の「手抜き」が別の意味で感じられるようになった。

 「私が教員時代、小学校5年生を担当した時に『国歌を書いて』と言ったら、書けた子は1人もいなかった。好きな国を聞いたら、日本を挙げた児童は約50人のうち3人しかいない。教育の影響力は大変だ、とつくづく思った」

 そう嘆く仲村さんの胸中を今、何度も去来する言葉は「国家百年の計は教育にあり」だという。

5月10日は尖閣の「有史記念日」


 沖縄県民にとって特別な月である5月だが、将来、そこにもう一つ「記念日」が加わるかも知れない。尖閣諸島が初めて文献で確認された日付が「1534年5月10日である」という研究成果の普及を図るため5月11日、長崎純心大の石井望准教授が石垣市で講演した。石井准教授によると、今年は「尖閣有史480周年」の記念すべき年に当たる。

 尖閣に関する最古の文献史料は中国の「使琉球録」だという。中国から琉球に向かった使者が1534年5月10日に「釣魚嶼」(尖閣の中国名)を通過したことが記されている。

 石井さんによると、中国はこの文献を、尖閣が歴史的に自国領であることの根拠の一つだとしている。しかし出典が中国の文献であることは、日本側にとって歴史的に何ら不利にはならない。

 石井さんは「同じ史料の前段に琉球人が案内したと記載されている。尖閣を通過するのは琉球人の航路。尖閣が中国ではなく、琉球の文化圏に属していたことが分かる」と説明する。しかし琉球人うんぬんの記述を、中国は故意に無視しているという。

 こうした史料からうかがえるのは、琉球人が当時の中国人を「おもてなし」したという事実である。

 しかし現在の中国政府は、琉球人の「おもてなし」の事実を逆手に取り、こうした文献を都合良く切り貼りして、尖閣が「中国領」であることの歴史的根拠だと主張する。石井さんは講演で「沖縄県民は怒るべきだ」と訴えた。

 石井さんがこれまでに精査した尖閣関連の歴史資料は約100点に及び、そのすべてが「日本側に有利な内容」だという。中国側に有利な史料を故意に無視したわけではない。歴史史料を読み込んでも「中国が尖閣を領有していた根拠となるものはゼロ。完全にゼロだ」と強調する。

 尖閣の西側に中国の国境線があったことを示す文献は幾つもあり「通常は、話はそこで終わる」。ただ、尖閣が太古の昔から日本領だったわけでもない。尖閣は中国と琉球を往復する線上に位置する「目印」であり、その意味で交通の要衝だった。日本でも中国でもない無主地だが、尖閣周辺の航路を熟知していたのは琉球人だった。尖閣が日本領となったのは1895年の閣議決定によってである。

 石井さんの講演は私も司会者として参加したが、約40人の参加者があり、学術的な集会としては、石垣市ではまずまずの入りだった。石井さんは「尖閣有史500周年の20年後には、首相が尖閣に上陸して記念式典を開いてほしい」と呼び掛け、会場から拍手が起きた。

 市は、日本政府が閣議決定で尖閣を領土に編入した1月14日を「尖閣諸島開拓の日」に定めている。講演会の参加者からは「1月14日より、5月10日のほうが歴史的には重要ではないか」と石井さんの呼び掛けに賛同する声も出た。

交代時の領海侵犯を常態化させた中国海警


 尖閣周辺海域では中国公船「海警」の日常的な航行が続いている。今年に入り、領海侵犯は5月2日までに11回に達した。

 最近の海警の領海侵犯には一つのパターンがある。海警は通常2~3隻体制で、何日間か尖閣の領海外側にある接続水域を航行する。そして日本側に対する示威行為のように領海侵犯し、恐らく乗組員を休息させるため、直後に接続水域から出て、中国大陸の方向へ戻っていく。すると別の2~3隻が交代して接続水域に入ってくる。こうして尖閣周辺での24時間航行を実現している。

 昨年までの領海侵犯は、尖閣に近づく日本の漁船を威嚇する目的が多かったが、最近は尖閣向けに出港する漁船がほとんどいなくなった。最近の領海侵犯は、海警が本国へ戻る前、日常行事のように行う反日パフォーマンスと化しているようだ。

 領空、領海侵犯は他国の主権に対する重大な挑発行為であり、通常の国なら慎重にも慎重な検討の末に踏み切られるはずだ。それをいとも軽々しい反日パフォーマンスにしてしまった中国指導部の思考経路は、とても尋常とは思えない。

「兵は国の大事」と戒めた「孫子」のDNAは、現在の中国指導部にはない。つまり、現在の中国指導部とは、豊かな古典を生んだかつての中国人ではなく、私たちが初めて遭遇するエイリアンのような存在だと考えたほうがいいだろう。

 そうした中、5月に海警とベトナム沿岸警備隊の船が南シナ海で衝突する事件が起きた。

 このニュースを聞き、私が反射的に思い出した光景があった。昨年5月、漁船に同乗して尖閣諸島の周辺海域に行った際、領海侵犯して近づいてきた中国公船「海監」3隻が私たちの漁船に体当たりしようとしたのだ。

 巨大な中国公船が、くり船のような漁船に襲いかかって来たのである。海上保安庁の巡視船が間に割って入り、中国公船をけん制したため事なきを得たが、中国側が本気だったら、漁船は木っ端微塵だったに違いない。中国公船はこのあと、数時間にわたって漁船を包囲し、我が物顔で航行を続けた。

 南シナ海の事件で、中国はベトナム艦船が衝突してきたと主張しているようだが、尖閣海域で中国公船の振る舞いを目撃した経験からすれば、牙をむいて体当たりしてきたのは中国側のほうだと確信できる。

 私が目撃した尖閣周辺の中国公船はかなり横暴な態度だったが、この時は日本の巡視船のほうが数で勝っていたためか、漁船への実力行使はためらっていたようだった。南シナ海ではベトナムに対し、中国公船の数が圧倒的に優勢だという。やりたい放題だろうと想像できる。尖閣周辺でも南シナ海でも、中国がやっていることの本質は同じだ。すなわち「強盗国家」である。

やはり尖閣防衛にアメリカ頼みは禁物


 来日したオバマ米大統領は4月24日、日米首脳会談で、尖閣に日米安保条約が適用されることを明言した。沖縄のマスコミでも大きく報じられ、沖縄全体に、いわば安堵のような空気が漂い始めている。

 しかし報道された米大統領の発言を注意深く読んでいると、そこには日本側にではなく、むしろ中国側に対する配慮のほうが色濃くにじみ出ているのではないか。

 「尖閣諸島の最終的な主権の決定について特定の立場を取らない」「中国は地域だけでなく世界にとって重要な国だ」「日米安保条約は、私が生まれる前に結ばれた。越えてはいけない一線を私が引いたわけではない」――。尖閣について発言するオバマ氏は伏し目がちで、その表情には何の決意も感じられなかった。

 中国メディアは、米大統領が中国寄りの発言をしたと報じたそうだが、実際にそう見える。「尖閣は日本の領土である」とオバマ氏が明言できない時点で、既に米国は頼りにならない。

 中国は尖閣を奪うことによって、太平洋への出入り口となる重要拠点の海域を獲得できる。そのことは日本だけでなく米国にとっても危機であり、ひいては世界の平和にとっても危機であるに違いない。

 しかし、オバマ氏をはじめとする米国政府の面々がそのことを理解しているとは到底思えない。以前にも本誌で述べたことがあるが、米国頼みの尖閣防衛などあり得ない、と改めて確信した。

 米大統領が誰に配慮しようが、本来、私たちにとってはどうでもいいはずだ。尖閣を行政区域とする石垣市民の1人としては「自分たちの島々を他国に守ってもらう」ことを当然視する風潮に耐えがたい不自然さを感じる。自分の国は自分で守るという原点に一刻も早く立ち返ってほしい。

 そんな中で、石垣市では、将来の国のあり方を改めて考え直すという動きが、少しずつではあるが始まっている。5月10日、沖縄「正論」友の会の「八重山セミナー」が初開催されたのだ。

 地元有志の実行委員会と八重山日報が協力して実現した。最初の講師となった産経新聞社専務・大阪代表の齋藤勉氏が中国とロシアの現状を解説。「尖閣の最前線である石垣島でセミナーが開かれることに敬意を表したい」と述べた。

 悪天候にもかかわらず200人超が参加した。尖閣問題に対する市民の関心は必ずしも高くないが、緊迫化する一方の国際情勢を受け、少しずつ意識の高まりがみられるようだ。

 八重山を起点にして、沖縄にしっかりとした日本の防波堤を築くことが私たちの目標だ。今後もセミナーを重ねたい。月面着陸ではないが、石垣市民にとっては小さな一歩、しかし県民にとっては大きな一歩と評されるよう努力したい。



仲新城誠氏 昭和48(1973)年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、平成11(1999)年に石垣島を拠点とする地方紙「八重山日報」に入社、22年から同紙編集長。イデオロギー色の強い報道が支配的な沖縄のメディアにあって、現場主義と中立を貫く同紙の取材・報道姿勢は際立っている。著書に『国境の島の「反日」教科書キャンペーン』(産経新聞出版)。