元老押し切り英と同盟


 明治18(1885)年、日本に内閣制度が創設された。当時、議院内閣制はとっていない。総理大臣、つまり首相の座は初代の伊藤博文以来、黒田清隆、山県有朋、松方正義、大隈重信という明治維新の功労者、元老の間で「たらい回し」のようにされてきた。

 だが16年後の明治34年、4度目の登板となった伊藤の内閣が、財政運営をめぐり崩壊するや、もはや「たらい回し」は限界にきていた。元老たちは誰も引き受けようとしなかったのだ。

 理由のひとつは厳しい国際情勢だった。6年前、日清戦争には勝利したが、直後の三国干渉で遼東半島の放棄を余儀なくされた。義和団事件の後にはロシア軍が満州(現中国東北部)に居座り、朝鮮半島をうかがっている。日本は存亡の機にあった。

 すでに「功成り名を遂げた」元老たちは、あえて難局に挑もうとはしなかったのだ。一時はやはり維新の功労者である井上馨にお鉢が回りそうになったが、組閣に失敗、結局、前陸軍大臣の桂太郎が指名された。

 桂は伊藤、山県らと同じ長州藩(山口県)の出身で、山県直系の陸軍官僚である。戊辰(ぼしん)戦争で東北各地を転戦しているが、山県らより若い「維新第二世代」で当時53歳だった。後に「ニコポン宰相」つまりニコッと笑って相手の肩をたたき、丸め込むという、軍人らしからぬ政治家だった。

 その桂が外務大臣に抜擢(ばってき)したのが小村寿太郎だった。桂よりさらに若い外務官僚である。宮崎県の旧飫肥(おび)藩出身で、明治を代表する外交家の陸奥宗光に見いだされ、駐米、駐ロシア、駐清各公使をつとめた。

 政治家としての力量は未知数だったが、「国粋主義者」と言われるほど愛国心が強く、体は小さいが度胸にあふれていた。桂としては危機の時代に小村の「強さ」に期待したのである。この桂と小村のコンビが20世紀初頭の日本をリードしていくことになる。

 外相に指名されたとき、小村は北京で義和団事件の戦後処理に当たっていた。周囲は「桂内閣は繋(つな)ぎで短命だからやめとけ」と止めたが、小村は「6カ月でもいい。やりたいことがある」と意に介さずに引き受けた。

 「やりたいこと」とは日英同盟の締結だった。ロシアの満州や朝鮮半島進出に危機感を抱く日本と、西欧列強の中でロシアだけが東洋で利権を得ることを嫌う英国とが手を結び、対抗するための条約だった。駐英公使の林董(ただす)らが英国側と交渉を進めていた。

 桂は同盟推進派だったが、厄介なことに伊藤、井上という2人の元老が反対していた。特に伊藤はロシアの力を極端に恐れる「恐露派」と言われ、ロシアと協商関係を結ぶ、つまり「話し合い」で日露間の問題を解決すべきだ、と主張していた。

 伊藤はこの年の秋、ロシア側と協議するため米国、欧州経由でロシアに向かった。その旅の途次、桂に対し「自分とロシアの協議が終わるまで同盟の結論を待ってほしい」と電報を打った。

 だが桂や小村は待たない。今や日露の提携を恐れる英国の方が「名誉ある孤立」を捨て、同盟に積極的になっている。この機会を逃す手はなかったのだ。

 12月7日、神奈川県葉山にある桂の別荘で開かれた伊藤抜きの元老会議で、小村は日英同盟の必要性をとうとうと意見した。ロシアとの協商は「ロシアは侵略主義だから、協商で平和が生まれても一時的だ」と斬って捨てた。

 その迫力に元老会議もゴーサインを出し、翌35年1月30日、ロンドンで締結された。

 中身は(1)英国の清国における、日本の清国、韓国における利益保護のため共同行動する(2)日英いずれかが利益保護のため第三国と交戦するとき、もう一国は厳正中立を守る-などが柱だった。日本にとって「第三国」がロシアを示すことは明らかだった。

 この同盟を基に日本は本格的にロシアと対決することになる。(皿木喜久)

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【用語解説】その後の日英同盟

 日英同盟協約は日露戦争の講和を前にした明治38年8月、改定された。日本が韓国に対し指導、監理、保護の措置をとることを英国が認めるなどの内容だった。さらに明治44年には米国に対してはこの協約は適用されないことを規定するなど再改定された。しかし第一次大戦後に東アジアをめぐる日本と米英との対立が生じはじめ、大正10(1921)年、ワシントン会議で調印されたいわゆる「4カ国条約」で日英同盟の終了が明記され、同盟は2年後の大正12年に失効した。