朝鮮半島への進出で開戦


 昨年暮れ、北朝鮮が長距離ミサイルを発射、世界中から注目を浴びた東倉里は朝鮮半島の北西の付け根、中国との国境である鴨緑江河口に近い所に位置する。

 実は110年ほど前にも、この朝鮮半島北西部一帯に、世界中とは言わなくとも東アジアの耳目が集まっていた。

 東倉里から30キロばかり北の鴨緑江河口の朝鮮半島側に竜岩浦という所がある。小さな地図には載らないこの町が近代史に名を残すことになるのは、日露戦争のひとつのきっかけとなったからだ。

 明治36(1903)年の5月上旬、韓国に駐在していた日本の武官らから政府に、ロシアの動向に関するある情報が相次いで寄せられた。「竜岩浦を武力で占拠し、兵営工事を始めた」というものだった。後に森林開発を理由にしていることがわかる。

 これまでにも書いたが、ロシアは3年前の義和団事件で出兵した軍隊を満州(現中国東北部)にとどめていた。その軍事力を背景に、清国から租借した遼東半島の開発を着々と進めていた。その次の狙いが朝鮮半島にあることは明らかだった。

 日本などの要求に対し、この年4月8日を撤兵期限と定めたものの、その日がくるとあっさりと破棄する。日本国民の間にはロシアに対する嫌悪感が高まるばかりで「ロシア討つべし」との声が渦巻いていた。

 それでも政府は4月21日、京都で開いた伊藤博文、山県有朋の両元老、桂太郎首相、小村寿太郎外相の4者会談で、ロシアと「満韓交換論」で交渉する方針を決めた。満州におけるロシアの権益に日本が口を挟まない代わりに、朝鮮半島は日本に任せロシアは手を出さないことで妥協する。何とか「話し合い」で解決しようという姿勢だった。

 国民感情はともかく、朝鮮半島をロシアの手に落ちないようにすることが、日本の安全保障にとって最重要だったのである。

 そんなときに飛び込んできたのが「竜岩浦占拠」の一報だった。日本側から見れば、まさにロシアが越えてはならない「一線」を越えたのだった。

 こんどは軍が動いた。陸軍参謀本部は休日返上で事態への意見書を作成、5月12日、大山巌参謀総長から明治天皇への「上聞(じょうぶん)書」の形で示された。

 「韓国にして彼の勢力下に置かるるに至らば、帝国の国防亦(また)安全ならざるべし」と危機感を訴えたのである。軍内には「今なら勝てる」という楽観論もあった。

 一方、政府は6月23日、明治天皇の臨席を仰いだ御前会議でロシアと本格的に交渉を始めることを決めるが、一向に進展しない。

 ロシア内部にもこの時期、朝鮮半島まで利権を伸ばすべきだという強硬論と、満州にとどまってその権益を確保すべきだとの意見が交錯し、国論がなかなか統一されなかったからだとされる。

 秋になってようやく小村とロシアの駐日本公使、ローゼンとの交渉が本格化する。この中でロシア側は、朝鮮半島の北部に「中立地帯」を設けようと提案する。一見建設的な妥協案に見えるが、日本からみれば「北はよこせ」と言っているに等しかった。

 交渉はこの「中立地帯」の位置などをめぐり双方が何度も修正案を出し合うが、ともに譲らない。この間、日本では著名なジャーナリストの黒岩涙香(るいこう)が主宰する『万朝報(よろずちょうほう)』紙が反戦論から主戦論に転じるなど、マスコミも早期開戦論に傾いていった。

 翌明治37年1月12日、御前会議でロシア側に最後の回答を求め、不満足なものであれば、軍事行動に移ることを決めた。そして2月4日、ついに軍事行動と国交断絶を決めた。

 正式な「宣戦布告」は2月10日となったが、日本軍はすでに8日夜、陸軍が徹夜で朝鮮半島の仁川に上陸を敢行、さらに海軍は付近にいたロシア艦船を攻撃した。

 日本の命運をかけたロシアとの戦争が火ぶたを切ったのである。(皿木喜久)

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【用語解説】万朝報の「転向」 

 日刊紙『万朝報』は、キリスト教の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水、堺利彦らを社員に擁し、労働問題などを論じるほか、明治30年代には日露開戦反対の論陣をはっていた。しかし36年10月8日、社長の黒岩涙香が「もはや戦いは避けられない情勢であり、それなら全国民が力をひとつにすべきだ」と書き、開戦やむなし論に転じた。これに対し内村、幸徳、堺は退社する。しかし内村はその理由を「国民こぞって開戦と決めたら反対はしない」と述べ、これ以上反対論を書かないためだとした。