批判に耐え旅順落とす


 浪花節は昭和20年代まで、映画と並ぶ「娯楽の王様」だった。その最高のヒーローとなったのが、乃木希典(まれすけ)陸軍大将である。

 例えば「信州墓参」で、先祖の墓参りに訪れた乃木に対し、それと知らぬ老婦人が毒づく。「自分の息子は日露戦争で死んだ。乃木というやつのせいだ」と。

 乃木はじっと耐えるが、彼女は帰ってきた孫から目の前の人が乃木大将で、しかも乃木自らも息子2人を戦争で失ったと聞かされ、平謝りする。

 浪花節だけではない。乃木は明治天皇に殉じて自死した後、神様となり、自宅の隣の場所に建つ乃木神社に祭られている。

 明治期を代表する陸軍の軍人とはいえ、なぜ乃木は神様となり、浪花節で語り継がれることになったのだろう。それは日露戦争のさい、犠牲的精神で「旅順」を陥落させたためにほかならない。

 旅順は満州(現中国東北部)から黄海に突き出た遼東半島のほぼ突端にある港湾都市である。

 明治37(1904)年2月、ロシアと戦端を開いた日本はまずこの旅順を標的とした。一帯を清国から租借するロシアがここに太平洋艦隊を集結させていたからだ。日本の海軍としては、この太平洋艦隊を壊滅させて黄海を押さえ、主戦場の満州に陸軍を自由に送り込もうとしていた。

 ところがロシア艦隊は周囲をぐるり山に囲まれたこの港に引きこもる。背後の山々には、コンクリートで固めた堡塁(ほうるい)(とりで)を築き、旅順全体を強固な要塞に変えていた。こうして遠く本国からバルチック艦隊の到着を待つ作戦である。

 これに対し日本の連合艦隊は旅順港の狭い港口に老朽船を沈め、ロシア艦隊の出港を阻止しようとするがうまくいかない。このため港口での「封じ込め」に労力をさかれ、バルチック艦隊の影におびえなければならなかった。

 一方の日本陸軍は、朝鮮半島や遼東半島から上陸、ロシア軍を押し戻すように、満州の地を北上する。だが旅順にロシア軍が健在では自由に攻められない。日本にとって、ノドに刺さった骨のようなものだった。

 そこで、旅順の背後、つまり北側からの攻撃を任されたのが新たに編成された第三軍の司令官、乃木だった。第三軍は明治37年8月19日、後方東側の東鶏冠山(けいかんざん)方面から攻撃をかける。しかしロシアの堡塁に阻まれ、6日間で1万6000人の死傷者を出す大敗を喫した。9月、10月にも総攻撃をかけるが、その都度はね返された。

 乃木は高潔な人柄で知られ、優れた詩人でもあった。部下を全面的に信頼し、正面からいちずに攻め続けた。将兵たちもその乃木を信頼し、一丸となって攻撃を繰り返した。

 だがこうした精神主義的にも見える乃木や第三軍の攻撃姿勢に海軍や陸軍参謀本部の中に疑問が生じた。そして背後の山々の中で、旅順港を見渡せる北西部の二百三高地に標的を絞るよう要請、第三軍は11月末から二百三高地への集中攻撃を加えた。

 途中、乃木の若いときからの友人で、現実家の満州軍総参謀長の児玉源太郎が一時、指揮権を握る形で加わったこともあり、12月5日、ついにこの山を奪取した。

 山上に観測所を設け、ここからの指示で、日本国内から持ち込んだ28センチ砲という巨大砲で旅順港のロシア艦に砲弾を浴びせ、ほぼ壊滅状態に追い込んだ。周囲の堡塁も次々に破られ、旅順のロシア軍は翌明治38年の元日、ついに降伏する。

 5万人にいたる死傷者を出したことで「信州墓参」のように、乃木に対する批判もあった。近年になってからは「愚将論」さえ登場した。だが国民は、旅順の戦いがいかに厳しいものだったか知っていた。批判に耐えながら、黙々と敵陣に挑む乃木に崇高なものを感じ「神」とあがめたのである。

 「旅順陥落」で陸軍は満州での戦いに全力を投入、海軍はバルチック艦隊の来航に万全を期すことができた。(皿木喜久)

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【用語解説】旅順港口閉塞作戦

 開戦から間もない明治37年2月24日から3回にわたり実施された。旅順港口は幅が約270メートルしかないため、老朽船を沈め港を使い物にならないようにしようとした。だが敵の砲弾が飛んでくる中、自沈作業をし、ボートに乗り移り逃げるという危険な作戦だった。3月27日の第2回作戦で福井丸自沈の指揮をとった広瀬武夫少佐(死後中佐)は部下を捜していてボートに移るのが遅れ、敵弾を受け戦死した。このことは新聞で大きく報道され、広瀬も「軍神」となり、後に故郷の大分県竹田市の広瀬神社に祭られた。