「総力戦」勝ち抜いた陸軍


 漫画家の森田拳次氏は戦前、満州の奉天で育った。現在の中国東北部、遼寧省瀋陽市だ。森田氏は絵と文でつづる『中国からの引揚げ 少年たちの記憶』の中で思い出を次のように描いている。

 「満州の冬は厳しい。…濡れ手拭いなどあっという間に棒のように凍りつく」

 瀋陽は緯度的には北海道南端とほぼ同じで、さして高緯度にあるわけではない。だが冬は内陸性の寒さに加え、シベリアからの厳しい季節風にさらされる。1月の平均気温は氷点下10度を大きく下回り、最低気温の平均は氷点下18度近くにまで下がる。

 明治38(1905)年冬、この酷寒の奉天付近で、日本とロシアの大軍がにらみ合っていた。

 日本陸軍は開戦間もない37年4月末、黒木為楨(ためもと)司令官率いる第一軍が朝鮮半島から鴨緑江を渡り、満州に攻め入った。5月5日には第二軍(奥保鞏(やすかた)司令官)が遼東半島に上陸、こちらは半島の西側、遼東湾に沿って、ロシア軍を押し返しながら北上した。

 さらに6月末、新たに編成された第四軍(野津道貫(みちつら)司令官)がやはり遼東半島から北上し、一、二軍と合流、「満州軍」としての体制を整えた。

 そして8月28日からは奉天の南約70キロの遼陽に陣取るロシア軍に総攻撃をかけ、2万3000人以上の死傷者を出しながら遼陽を落とし、奉天方面へと進む。

 一方、苦戦の末に38年初頭に旅順を陥落させた乃木希典司令官の第三軍も、ほとんど休む間もなく北上して戦列に加わる。さらに朝鮮半島北部に新たに鴨緑江軍(川村景明司令官)も編成され奉天方面に向かった。

 こうして1月段階での日本軍は総勢25万人に上った。日本国内の陸軍留守部隊はゼロに近い。文字通りの「総力戦」である。一方、アレクセイ・クロパトキン総司令官率いるロシア軍は32万人がシベリア鉄道で送り込まれていた。

 だが日本軍にとって、もうひとつの敵は寒さと病気だった。

 3年前、陸軍第8師団が多くの犠牲をはらいながら、青森県の八甲田山で雪中行軍を試みた一つの理由が、冬の戦いに備えるためだったことは先に書いた。

 それでも将兵たちのほとんどはこんな寒さは知らなかった。衣服や寝具なども、ロシアに比べ酷寒地向けではない。さらに慣れない地で腸チフスを患い、栄養不足による脚気(かっけ)も蔓延(まんえん)する。

 明治から大正にかけての文豪・森鴎外は軍医でもあり、日露戦争では第二軍の軍医部長として戦地に赴いた。戦いで負傷した兵の手当てや病気治療のもようを野戦衛生長官あてに報告し、今、鴎外全集の中に収められている。

 奉天の南でロシア軍と対峙(たいじ)していた38年2月16日付の報告では第二軍だけで新たに26人が凍傷を負い、腸チフスは198人、脚気に至っては955人が新たに発症した、とある。まさに満身創痍(そうい)の軍隊だった。

 寒さの中、戦端を開いたのはロシア軍だった。1月25日、奉天西南の黒溝台付近で、日本軍の左翼(西)を攻めた。

 日本軍もこれに反撃、小康状態となったが、満州軍の大山巌総司令官は2月20日、総攻撃を指示した。氷が解ける春になると、ぬかるみで動きにくくなるからだ。

 2月22日、右翼(東)の鴨緑江軍が行動を開始、27日には左翼の第三軍が、ロシア軍の背後を突くかのように前進を始めた。

 一種の陽動作戦だったが、クロパトキンはこれにはまり、軍が右往左往する間に、一、二、四軍が中央から攻撃をかけた。ロシア軍は北に向かって退却を始める。3月10日、ついに奉天が陥落、大山総司令官の「入城」となる。

 クロパトキンはロシアで名将とされたが、一連の戦いで日本軍を必要以上に恐れ退却を繰り返し、後にロシア国内で非難をあびた。

 いずれにせよ日本陸軍は「世界一」とされたロシア陸軍ばかりでなく、満州の寒さや種々の病気にも打ち勝ったのである。(皿木喜久)

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【用語解説】首山堡(しゅざんぽ)の戦い

 明治37年8~9月の遼陽の会戦では遼陽の南側の首山堡をめぐる攻防が焦点となった。小高い山や田畑からなるこの地をロシア軍が要塞として固めていたからである。日本軍は8月31日から第二軍を中心にこの首山堡に総攻撃をかけた。中でも大隊を率いる橘周太少佐(死後中佐)は、先頭に立って首山堡の中心、一四八高地を奪う。だがロシア軍の反撃を受け戦死、高地は奪い返されるが、翌日第二軍が攻略に成功、遼陽の会戦勝利の突破口となった。橘はこれにより海軍の広瀬武夫中佐と並ぶ陸の「軍神」と呼ばれることになる。