日本海で待ち受け圧勝


 近代科学は一国の軍事行動を丸裸にするまでに発達した。北朝鮮のミサイル発射や核実験でも、人工衛星の「目」は、発射場や実験場付近の車の動きなど準備状況を細かくとらえる。発射や実験の事実は数分もかからず世界中が知ることができる。

 だが100年あまり遡(さかのぼ)ると、衛星どころか、航空機もまだライト兄弟が59秒のフライトに成功したばかりだった。通信手段も限られている。敵の動き、とりわけ大海原の艦隊の動きをチェックするなど至難のわざだった。日露戦争が起きたのはそんな時代である。

 日本は明治37(1904)年12月、ロシアの旅順艦隊をほぼ全滅させた。それより前、8月には蔚山(ウルサン)(韓国)沖の海戦で、ウラジオストク港に拠点を置く「ウラジオ艦隊」の主力艦を沈め、無力化させている。この結果、日本海から黄海にかけ制海権を握る。

 これに対しロシアは37年10月、欧州のバルト海を拠点とするバルチック艦隊を太平洋第二艦隊とし出港させた。皇帝ニコライ2世は司令長官に任命したジノヴィ・ロジェストウェンスキー中将に「極東に遠征し日本艦隊を撃滅せよ」と命じた。戦艦7隻を中心とする堂々たる陣容だった。

 だが艦隊は文字通り難航を強いられる。途中立ち寄る港で中立国などとのトラブルが発生する。大型艦は近道であるスエズ運河を通れず、アフリカ南端を遠回りしなければならなかった。

 さらに、第二艦隊だけでは心もとないと、バルト海に残った艦をかき集め太平洋第三艦隊を編成、38年2月「応援」に回した。だがインドシナ半島のヴァン・フォン湾で合流するまで時間がかかり、極東遠征は遅れに遅れた。

 おかげで東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、艦も兵も十分にリフレッシュできた。天才参謀といわれた秋山真之はこの間に「七段構え」といわれる戦法を編み出し、艦隊は射撃訓練を繰り返した。

 ただ困ったことに敵艦隊の動きがつかめない。38年5月14日にヴァン・フォン湾を出たのは確認できたが、その後は不明だ。

 最終的に日本海からウラジオストク港に入ろうとすることは確かだが、最短距離の対馬海峡を抜けるのか、太平洋を迂回し津軽海峡か宗谷海峡を通るのか。連合艦隊は対馬海峡とみて韓国の釜山に近い鎮海湾に身を潜め、待ち受けるが、容易に姿を見せない。

 実はロシア側にも太平洋を回り小笠原諸島を占拠、奪還にくる日本艦隊を撃退するという案もあったという。だがロジェストウェンスキーは対馬海峡を選ぶ。出港以来7カ月に及ぶ長旅で、一刻も早く着きたいとの気持ちがはたらいたのかもしれない。

 5月27日未明、長崎県の五島列島沖で哨戒(見張り)に当たっていた信濃丸が、ロシア艦隊を見つけた。信濃丸は民間の貨物船を徴用した仮装巡洋艦だった。

 「敵艦隊見ゆ」の無電は午前5時過ぎには鎮海湾の東郷司令長官のもとに届いた。東郷を乗せた旗艦「三笠」を先頭とした連合艦隊は対馬海峡でロシア艦隊を待ち受け、同日午後2時過ぎ、歴史的大海戦が始まった。

 東郷は、丁字(ちょうじ)型に敵の進行方向を抑える作戦をとり、たちまち有利にたった。翌28日夕までの戦いで、ロシア艦隊38隻のうち戦艦6隻など19隻を沈め、13隻を捕獲ないし、武装解除する。逃走中に自沈したり破壊したりした2隻を除き、無事ウラジオストクなどに逃げ込めたのは4隻だけだった。

 対して日本側が失ったのは水雷艇3隻だけだった。世界の海戦史上例を見ないワンサイドの勝利である。その理由としては、日本側にロシア艦隊を待ち受ける時間的余裕が生じたことや作戦の奏功、ロシア側の遅すぎた極東到着などが挙げられる。

 だがそれより、この一戦に国運をかけた日本と、長い航海で疲れ果てたロシアとの士気の違いが勝敗を分けたといえる。(皿木喜久)

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【用語解説】東郷平八郎司令長官

 日露開戦必至となっていた明治36年10月、山本権兵衛海相は、常備艦隊司令長官を日高壮之丞から同じ薩摩藩出身の東郷平八郎に代えた。東郷はそれまで「閑職」とされた舞鶴鎮守府司令長官だった。勇猛さでは随一だが軍中央の指示に従わない恐れもある日高より、無口で自分を出さない東郷を選んだのだ。常備艦隊は同年12月には連合艦隊として改編されたうえ、加藤友三郎参謀長や秋山真之参謀ら優秀なスタッフをそろえてロシア艦隊と対戦、東郷はみごと山本だけでなく国民の期待に応えた。